あしなが育英会 アフリカ遺児・教育支援「1日1ドルの世界」

2011-05-23

格差生みだす様々な要因 vol.5

 2010年7月に国内で発表した『アフリカ遺児教育支援・あしなが100年構想』を今後どのように具体的に展開していくべきか―。

 あしなが育英会・第三次アフリカ調査団が、3月7日~14日、ウガンダ共和国を訪問。玉井会長を総団長に、全国の大学奨学生のリーダーら合計37人が参加した。
 調査団はレインボーハウスのあるワキソ県ナンサナ町に滞在、あしなが寺子屋生徒の自宅にホームステイした。それ以外に、あしなが寺子屋生徒以外のエイズ遺児の家庭訪問や、つどいを実施しエイズ遺児らとの交流を深めた。
 「1日1ドルの生活」を実際に体験し、アフリカの貧困解消に何が必要なのかを考察するという目標のため、団員はホームステイに体当たりで臨んだ。


 私は「ウガンダ人は母国のことをどう思っているのか」というテーマをたてて調査に臨みました。

 私がまず感じたのは、ウガンダの人たちは本当に明るくて元気で、国内全体が自由で楽しい雰囲気につつまれていたことです。これは私が想像していた貧困国のイメージとは随分と異なるものでした。寺子屋の子どもたちに「ウガンダは楽しい?」とたずねると、うれしそうに「イエス!」と答えてくれました。

 また、ウガンダの人たちとコミュニケーションをとっていく中で、皆母国に対する強い誇りを持っていることに気付きました。ウガンダには政治的権力は持たないが国の象徴である国王のカバカがいて、国民はカバカのことが大好きです。これは天皇を国の象徴としている日本とよく似ていると思いました。

 私は小学校2年生のプロッシーという女の子の家にホームステイをしました。家にはお母さんとふたりの赤ちゃん、そして唯一の稼ぎ手であるお兄さんの、5人家族でした。ウガンダ人は近所同士が家族ぐるみの付き合いをし、助け合って生活していることに気付き、先進国である日本が忘れかけているものがそこにはありました。

 ホームステイ以外にも家庭訪問などを通し、同じエイズ遺児の家庭でも、生活状況を左右する要因によって格差があることを知りました。この貴重な経験を今後も私のこれからの生活にしっかりと生かしていきたいと思います。

(片山直人・常葉学園大学3年)


2011-05-23

ゴミ箱が教えてくれたこと vol.4

 2010年7月に国内で発表した『アフリカ遺児教育支援・あしなが100年構想』を今後どのように具体的に展開していくべきか―。

 あしなが育英会・第三次アフリカ調査団が、3月7日~14日、ウガンダ共和国を訪問。玉井会長を総団長に、全国の大学奨学生のリーダーら合計37人が参加した。
 調査団はレインボーハウスのあるワキソ県ナンサナ町に滞在、あしなが寺子屋生徒の自宅にホームステイした。それ以外に、あしなが寺子屋生徒以外のエイズ遺児の家庭訪問や、つどいを実施しエイズ遺児らとの交流を深めた。
 「1日1ドルの生活」を実際に体験し、アフリカの貧困解消に何が必要なのかを考察するという目標のため、団員はホームステイに体当たりで臨んだ。


2010年12月25日付・読売新聞夕刊

 私はハジャラという12歳の女の子の家にホームステイさせてもらった。家は日本にある私の部屋より狭いスペースで、聞かずとも彼女の家庭の経済状況がわかる気がした。

 彼女たちの生活で驚いたことは、家にゴミ箱という物が存在しなかったことだ。私が日本から持って行ったお菓子をみんなで食べた後、その箱は家の外へと投げられた。私は持っていたスーパーの袋を広げ、「ゴミ箱」を作った。そして、ゴミを外に捨てるのではなく、このゴミ箱に入れるというルールを作った。

 初めは家族全員戸惑っていたものの、私が何度かお手本を見せると子どもたちも理解して進んでゴミ箱に入れてくれるようになった。

 「親の背中を見て子は育つ」。これは日本もウガンダも同じことではないだろうか。私はエイズ遺児家庭が自立するためには教育が必要不可欠だが、秩序だった生活も必要ではないかと考えた。そのためには母親や保護者の教養が必要となる。そうした人を対象とした教室などを開き、エイズ遺児だけでなく、エイズ遺児家庭全体を支援していくことが「負の連鎖」といわれるものを打破する方法ではないだろうか。

 「今度の地震で日本の家族は大丈夫か?」と声をかけてくれるウガンダ人がたくさんいた。彼らの心遣いに感動した。

 「いつか日本に行くから!」。つたない英語で話してくれたハジャラを含む子どもたちに、私は一体何ができるのか。それは彼女の言葉を信じ続け、ウガンダで目にしたもの、肌で感じたことを発信し、ウガンダについて考え続けることだと思う。

(小田明日香・聖カタリナ大3年)


2011-01-31

アフリカ 真の支援とはvol.3 ~ウガンダ・エイズ遺児 極貧の優しさに触れて考えた

昨年7月に国内で発表した「アフリカ遺児教育支援・あしなが100年構想」を今後どのように具体的に展開していくべきか―。

12月13日から19日まで、「第2次ウガンダ視察団」の先遣隊として、現地でのホームステイや家庭訪問などを経験した本会大奨生や職員たちは、1日1ドル以下で暮らすエイズ遺児家庭と数日間共に生活をしながら、何を感じ、何を考えたのか。電気もガスも水道もなく、地元の学校にも行けない遺児たちに対し、会として、個人として、本当に必要な支援は何なのか。一人ひとりが肌で感じ得た経験をルポで紹介します。


2010年12月25日付・読売新聞夕刊

2010年12月25日付・読売新聞夕刊


日本留学につなぐ夢

午後6時、日暮れが近い。家路に向かう11歳のナカブマ・シャロンという女の子に案内されて歩き出した。

事前の情報は母親と兄弟で借家に住んでいて、母親には仕事が無く授業料が払えずシャロンが退学したということ、彼女は少し英語が話せるということだった。


家と家の50センチほどの間を抜けたり、水たまりやぬかるんだ道を通って進む。多分私ひとりでは幹線道路まで引き返せず迷子になるだろう。目の前に開けたのはレンガと土壁の左右幅15メートル高さ2メートルの建物。案内されておそるおそる中に靴を脱いで入る。

母親が帰ってきた。妹も一緒だ。2畳間ほどのスペースに4人が座り簡単な挨拶を交わした。暗くて顔がよく見えない。

食事をするという。外へ出ろという。出てきたのは焼き芋だった。一口ほおばる。メイクイーンのような味だが大きい。誰も話さず静かだ。ここで二晩過ごすのかと思うと食が進まない。ガスも電気も水道も無い生活。水はどこにある?トイレは? どうやって寝るのか? 五十男の僕がだんだんと心細くなっていく。我ながら恥ずかしい。

9時過ぎ眠ることにした。母親はベッドで、シャロンと妹はベッドの横のマットの上で、私は土間で。トイレはどこかと聞くと案内するという。家の裏側にあったのは2つの入り口があるポットン便所、A4ほどの穴があいているだけの畳1畳ぶんほどのスペースだった。午前零時に目が覚める。真っ暗で何も見えない。冷えてきて寒い。しかしどうしようもない。ただ夜明けを待った。

ウガンダは1962年イギリスから独立した。私が2歳のときだ。50年近い歳月が流れる中で日本とウガンダを分けたものはなんだったのか。私は福岡県三池炭坑から車で40分ほどの農家で生まれ育った。私が物心ついたとき、水道は無く井戸水の生活、電気はあったが風呂は村の共同浴場ひとつ、ポットン便所だった。しかし小中学校は義務教育、交通事故は社会問題として認識され、岡嶋さんと玉井会長の運動で奨学金制度へとつながり、あしながさんが庶民パワーで支えてくれた。戦争をしなかったこと、世界の工場となった技術力と勤勉にはたらいた庶民。

あしながウガンダの仕事は、数は限られるが、遺児に勉強する環境を提供することの意味をアフリカの地で発信し続けることが現時点での大きな仕事だと思う。そこを起点として大人たちが子どもを支援することが新しい社会をつくることになることに気づき、貧しいけれど自らも1シリング寄付しようと思ったり(貧者の一灯)、奨学金制度設立などの社会的な仕組みをつくることで地域の支え合いから広い社会の支え合いへとつながるイメージを持つように手助けしていく。

また日本が持続してきた「戦争をしないこと」などこれまでの日本の歴史を伝えることは新しい社会をつくるうえでのイメージづくりの手助けになるのではないか。押しつけではなくウガンダの人々の主導権を奪わずに。そしてそれは新しい国づくりの基礎となるのではないだろうか。
(職員・西田正弘)

一日一食 闇の生活

少年の名はKyeyune Joseph(チュユネ ジョゼフ・10)、二重まぶたで目がくりくりした利発な男の子。両親をエイズで亡くしている。母親を亡くしたのは昨年。おばと従兄と3人暮らし。おばは目が不自由でチュユネらの援助なしでは日常もままならない。彼の家に2泊3日ホームステイした。


民泊1日目、日本で眼にするアフリカレポートのカラー写真が罪作りなことだと気付いた。そう、写真を見た我々は、人に手助けしない自分を正当化し、そんな自分のエゴに目を向けずに済むように、「アフリカの子は貧しくとも目がきらきらしている」。派手な色合いのシャツにだまされた振りをして「きっと夢や希望を先進国の子同様持っているに違いない」などと。

この地に生を受けた彼らは夢を持てば必ず悲劇に襲われる。現実を認識できる年頃になったとき、徹底的な劣悪環境に囲まれた現実を前にまったく成す術がない。

じりじりと肌を焼く太陽の熱さこそあれ、先進国にあまりにも大差をつけられ、取り残されいわば太陽を奪われた陰の国々。

事実日が沈んだ後の生活は白黒世界。闇の中での生活だ。日干しレンガとトタン屋根で区切られた、大地とそう変わりない土間空間には、貧困という名の悪魔がじっと動かず定着している。

一日一食、ランプの灯しか知らないチュユネは夢を見るのだろうか? 見るなら夢の材料をチュユネはいったいどこから運んで来るというのだろう? 眠れぬ2晩とも私はチュユネの夢の材料をチュユネの生活のどこにも見出せないでいる。

6畳大の土間ふた間、奥の部屋には崩れかかったおばのベッド。傍らには木製のチェストといえば聞こえがいいが、壊れんばかりの家具。その上には油煙ばかりの燈明がひとつ。デボ(11・男)とチュユネはスポンジ丸出し、泥がしみ込んだマットを毎日の寝床にしている。素焼の日本でいう木炭用七輪、金属製の桶は煮炊き用の鍋である、数個。丸いポリバケツ大の入れ物の中には数枚の皿とフォーク。おばはマトケ(蒸しバナナで主食)を手で食べる。20 リッターは入りそうなプラスチック製の水入れ(ポリタンク)数個、毎日2人でその容器を自転車にくくりつけ、坂道多くこぶだらけのでこぼこ道を水くみに出かける。文明の利器は傾けると音が消えてしまう乾電池式のラジオ。唯一の情報源にして時計代わり。

デボは家では腰巻のような一枚を下半身に巻いているだけ。チュユネは、テラコヤのギンガム模様の制服を家でも着ていた。

初日の夜、少年2人は口で指示するおばの声を頼りに、直前に私を連れて購入してきたばかりのオニオンと小さなトマトひとつ、まな板もない土間の片隅で、不器用に刻んだ。洗い桶のような鍋に私が持参したお土産の食用オイルを入れ、切り刻んだトマトと少しのオニオンを加えた。私は大きく息を七輪の空気窓に吹き込むと勢いよく油が音を立てる。次にチュユネがなにやら彼の指先ほどの紙袋を大切そうに破きその中身を慎重に鍋に投入した。ほんの少しのカレー粉だ。これを入れるとうまいんだと確かに私にいった気がする。一家にとって貴重なコメを惜しげもなく入れ、かき混ぜいためる、水を加えて皿で蓋をした。

炊きあがった。真っ暗な中4人で食べた。私の皿はとりわけ大盛りになっている。一口食べるたびにジャリッと石と砂の味。でもうまかった。

ふと涙が出た。先ほど大切そうにカレー粉を入れていたチュユネの指先を思い出したからだ。もう涙が止まらなくなった。恥ずかしいので外へ出て夜空を見上げたら、満月前の月が、天空の真ん中で輝いていた。
(職員・林田吉司)

自分は食べず私に大盛り

笑顔で仲良く手をつないでいる両親の写真。ホームステイ先の7歳の少女が一番最初に私に見せてくれたものだった。彼女の父親は4年前にエイズで亡くなっている。以来、彼女は母親と4歳になる妹と3人で暮らしている。母親は仕事がみつからず、長らく職に就くことができない。電気・ガス・水道ももちろん無い。1日1ドルどころか収入がまったく無い状態で、一体どうやって毎日の生活をしているのだろう? そう疑問に思った。


いためたじゃがいもと豆のスープ。1日1食もままならないような生活の中で、私を心から歓迎して作ってくれた料理だった。シンプルながら彼らにとってはぜいたくな食事である。それを私には食べきれないほどたくさんお皿に盛ってくれるのに、子どもたちはほんの少ししか食べていない。自分の分をわけてあげると、喜んで食べた。母親にいたってはまったく食べてもいない。なぜ食べないのか? と聞くと、私はもう作りながら食べたから大丈夫だという。ほとんど食べておらず空腹のはずなのに、客人である私のために自分が食べる分を我慢してまでもてなそうとしてくれる。自分のことよりも相手のことをまず第一に思いやる心を母親から学んだ。

そして夜になると、母親はアフリカの太鼓を演奏しながら歌い、子どもたちはそのリズムに合わせて踊りだす。そこに近所の人たちも集まってきてさらに賑わいだす。みんな実に楽しそうだ。つらく厳しい貧困生活の中でも、笑顔を絶やさず前向きに生きる彼らに私は心を打たれた。

父親を亡くしてからは泣くことが多く笑うことがあまり無かった、と娘について母親が話してくれた。しかし、あしながの寺子屋に通うようになってからは、徐々に笑顔を取り戻し、今では寺子屋に通うのが毎日の楽しみらしい。寺子屋で出会った同じ境遇の仲間たちや、彼らを親身になってサポートするスタッフとの出会いが、彼女を深い悲しみから少しずつ救い出してくれたのだろう。あしなががウガンダのエイズ遺児たちにとって大きい存在であることを強く感じた。

ウガンダを発つ際、少女と母親は涙を流して私との別れを惜しんでくれた。私は、思った。少女やウガンダのエイズ遺児たちを救うために、今の私に一体何ができるだろう? 今回の体験を通じ、自分の精神力の弱さや忍耐力の無さを改めて反省した。今後、あしながの一員としてさらに知識・経験を積み、エイズ遺児たちの貧困削減、また彼らの未来に貢献できるよう成長したい。
(職員・市川仁美)

緑の大地に絶対的貧困

ウガンダのナンサナ村(今は町)で、ホームステイと、貧困家庭の聞き取り調査をおこなった。

私は、TERAKOYA児童であるアイダの家に2泊した。現在10歳の彼女は、母親を亡くしている。バスを降りて、アイダと手をつないでほこりっぽい赤土のでこぼこ道を20分以上歩いた。


アイダは、4軒長屋の一部屋(面積は8畳間ぐらい)に祖母と4人の孫のひとりとして暮らしている。アイダだけがTERAKOYAに通っている。祖母は足が悪く仕事ができないため、祖母の子どもたちがときどきよって届けてくれる食料が頼りのようだ。祖母はベッドで寝るが、孫たちはコンクリートの床にシーツを敷いて寝ていた。私は、コンクリートの床にマットレスを敷いてもらった。部屋には電気がなく、日本の三洋電機が寄付したソーラーランタンが唯一の照明器具だった。コミュニケーションはアイダの英語だけ。

食事は、ポーショ(とうもろこしの粉を練ったもの)に豆のスープをかけたものと砂糖いっぱいの重湯のようなものだった。オリエンテーションでウガンダ人はカレーが好きなので、カレールーをお土産にもってゆくのがよいと聞いたので、カレールーを持参し1日目にプレゼントした。2日目はマーケットで人参と玉ねぎを買ってきて祖母に渡した。アイダが人参と玉ねぎと米で何か作ろうというので、柄のない包丁とまな板がわりの私のノートで人参と玉ねぎを切った。ナベに食用オイルをいれ、人参と玉ねぎをいためていたらアイダが塩と米を入れたので、リゾットのようなものできた。少し水が足りず、ガンタ飯(芯があるご飯)だったが、みんな喜んで食べてくれた。ウガンダでガンタ飯? なにかうれしくなった。食べ終わってからアイダの祖母は、昨日お土産として渡したカレールーを出してきてその使い方を聞いてきた。

家庭訪問調査は、ナンサナと南部ラカイ県サマニャヒルでおこなった。

カンパラ周辺では、「教育による貧困からの脱出」の対象となる遺児は多いと思われるが、ラカイ県サマニャヒルの遺児は、生死に直面した貧困、絶対的な貧困のなかにあり、「教育による貧困からの脱出」以前の問題をかかえていると思う。

飛行機からみたウガンダの大地は、緑でおおわれ肥沃にみえた。自動車でラカイ県に移動したときの車窓からは、バナナ畑、その下に植えられたコーヒーの木、牧草地の牛の放牧などがみえた。豊かな自然、温暖な気候、首都カンパラの活気をみると経済発展の条件は整っている。内戦、エイズによる混乱から立ち直る日も近いと思いたい。
(職員・中村精一)


2011-01-25

ウガンダ肌で感じた現実と希望vol.2

昨年7月に国内で発表した「アフリカ遺児教育支援・あしなが100年構想」を今後どのように具体的に展開していくべきか―。

12月13日から19日まで、「第2次ウガンダ視察団」の先遣隊として、現地でのホームステイや家庭訪問などを経験した本会大奨生や職員たちは、1日1ドル以下で暮らすエイズ遺児家庭と数日間共に生活をしながら、何を感じ、何を考えたのか。電気もガスも水道もなく、地元の学校にも行けない遺児たちに対し、会として、個人として、本当に必要な支援は何なのか。一人ひとりが肌で感じ得た経験をルポで紹介します。



共に夜空を見上げて 

私は、夜空を見上げるのが好きです。

ウガンダ滞在2日目の夜。私は外に出て、日本から持参した星空ナビを取り出していました。設定を始めると、案の定、家族が集まってきます。そこで私は説明しました。「これは日時と場所を入力すると、そのとき見える星座の位置を教えてくれる道具なんだ」と。すると、予想外の答えが返ってきました。

「星座ってなに?」

困りました。星座について詳しい説明ができるほど、私は外国語が得意ではありません。そこで私は、何か見つけやすい星座はないかと夜空を探しました。そうしてすぐに見つかったのが、オリオン座でした。私は、明るい星を繋ぐと人や動物の形を描くことができ、それらに一つずつお話があることを説明しました。そして、オリオン座の形を教えると、その神話を話し始めました。

「昔々あるところに、オリオンという名高い狩人がいました。彼はある時から、狩りの女神であるアルテミスと恋に落ちました。しかし、アルテミスの兄であるアポロンは、それを快く思っていませんでした……」

私はそれ以降、日本で夜空を見上げるたびに、あのときのことを思い出します。そして、その話を目を輝かせながら聞いてくれた家族が、今も遠い空の下にいることを思い起こします。あの時、共に夜空を見上げた家族と、また同じように夜空を見上げたい。夜空の先に、自分たちの明るい未来を思い描きたい。そのために、私が為すべきことは何か。今の私に、そしてこれからの私に、一体何ができるのか。今回のウガンダ滞在を経て、私は今後、それを探していこうと考えています。(日本大学2年・西村光一)

挨拶を大切にする人々


ナンサナで会ったある遺児の女の子についていくらか話をしたいと思う。寺子屋の卒業生で16歳ながら、カンパラに出稼ぎに出ている兄から幼児2人を預かって育てている。家族はその兄が一人だけ。彼女はカトリック教徒だが、兄は改宗し、イスラム教徒になっている。

いくらか話をした後、家まで案内されていくと、隣近所の人たちが一緒になって屋外でご飯の準備をしていた。部屋の中を見せてほしいというと、ためらいがちに中を見せてくれたが、それは私を愕然とさせた。3畳に満たないスペースに寝床とご飯を炊く窯だけが置いてある。その狭さに呆然として、何もいうことができないでいるうちに、彼女は「これじゃ足りないのよ」とつぶやいた。兄からの仕送りが不安定ななか、自身も勉強をしなければならないはずなのに、時間のほとんどを家事と子育てに取られている。勉強どころか満足に食べられる環境にすらいない。隣近所の人がいることで、多少の安心感を得られる程度である。自分が恵まれすぎているのだということを強く実感した。

ウガンダの人々はとても挨拶を大切にする。挨拶も簡単なものから正式なものまでさまざまで、私が正式な挨拶をするとみな笑って私を受け入れてくれる。ウガンダ人は親切で、マケレレ大学で名刺を作ってくれと無理を頼んだときも、印刷所の方たちは真剣に話を聞いてくれ、その後印刷所の見学もさせてくれた。制度的に立ち遅れているところも多いが、人の温かさや陽気さは見習うべきところがあると思う。
(東京大学2年・照屋貴大)

遺児にも貧富の格差


私が、ホームステイをした家は2家庭ある。寺子屋の子の家庭と留学生の家庭だった。両家庭に共通して思ったことは、狭く暗い部屋でも家族みんなで仲良く過ごしている。近所の人との交流がある。私が朝起きると、庭先に小さな子どもたちが遊びに来ていたり、立ち話などをよく目にした。日本が忘れてしまったことをウガンダでは日常的にしている。また、逆に衛生的な問題も両家庭にいえる。例えば、調理するために使っているナイフをそのまま土の床に置いたり、バナナの葉をお皿代わりに使うのはとても画期的だが、洗わずにそのまま使用するなど、衛生的な知識が少ないのではないかと思う。少ないといっても、飲み水は煮沸消毒をしたり、お皿なども少ない水で器用に洗っているので、全くないというものではない。

両家庭を比べて思ったことは、遺児の中でも貧富の差があるということだ。寺子屋の子の家は、床が土でベッドは母親の部屋にしかなく、床にござを敷いて寝る。このような中で私が思ったことは、衛生的な問題や貧富の差をなくすには教育なのだと思った。あしなが育英会が行っていることは、ウガンダの子どもたちの生きる力になっているのだと改めて思った。また、私ができることは何なのだろうと今もずっと悩んでいる。しかし、私は看護的な知識や私の経験を通してウガンダのことや世界のことを考えていきたいと強く思った。
(桐生大学2年・深山ひとみ)


2010-12-25

エイズ遺児を襲う貧困 vol.1

音のない戦争といわれるエイズ禍。その“戦禍”の最大の被災地はアフリカにある。今日までにアフリカ大陸だけで2000万人の人命がエイズのために失われたという。問題はそこで終わらず、次世代にも連鎖している。その重荷を背負っているのがアフリカのエイズ遺児で、その数は2010年に2000万人を超えると推定される。ウガンダから現地レポートを新連載します。

ウガンダの首都カンパラ近郊のナンサナ市にある「あしながウガンダ・レインボーハウス」。そこでエイズ遺児のために教育の機会を提供する“寺子屋プログラム”が始まったのは3年前、現在約50人のエイズ遺児が読み書き算数などを学ぶ。休み時間には子ども同士で遊び、給食をお腹一杯食べて帰る毎日。それは何も特別なことではないかもしれないが、私たちには毎日がスペシャルなのだ、そう言わんばかりの生き生きした表情を子どもたちは見せてくれる。


私が訪れた時は算数の授業中で、子どもたちは両手の指を総動員して足し算に取り組んでいた。その中で顔中に大汗をかいた女の子が気になった。名前はサラ。小柄だったので9歳と聞いて少し驚いた。高熱で立つのもやっとの様子で、寺子屋のテディ先生はマラリアだろうといったが、よくあることのようで病院に連れていくふうでもなかった。慢性的な栄養調のせいか、同年代の子どもと比べ小柄で病気がちだった。

子どもたちはどのような環境で生活しているのだろう。私はサラに同行して家庭訪問させてもらうことにした。ぬかるんだ泥道に入って20分ほど歩くと、黄色いポリタンクを2個持った男の子が道で立ち止まっていた。サラの弟セチムワニ(8)だった。学校にも寺子屋にも行っていない彼は、水汲みや薪拾いをしながらサラの帰りを待っていたという。

2人に両親はいない。母親は7年前、父親は3年前、ともにエイズが原因で亡くなった。今は祖母のナンタレさん(65)が2人の面倒を見ている。家族の大黒柱を失った後、生活は悪化した。1万シリング(約360円)の家賃は5か月間滞納し、近所の人から食事をわけてもらって糊口を凌いでいる状態だ。「食べるものがなくなることが一番怖い」とナンタレさんは不安を口にした。同居する娘に赤ちゃんが生まれた後は、とてもサラたちにまで手が回らなかった。帰宅して着替えたサラは、高熱のまま弟と薪拾いに出かけた。
(渋谷敦志=フォトジャーナリスト)