2011-12-30
ブラジルに根差した仲間と次代へのバトン
21年ぶりとなる渡伯に際し、古い仲間を思い出し連絡を取った。彼からのメールには一葉の写真が添付されていた。
メールの末尾には「クリスマスを一緒に過ごしましょう。家族みんなで首を長くして待っています。」と結ばれていた。
私、藤村修(現内閣官房長官)、故山本孝史参議院議員とともに幼子を抱いている飯野俊夫君は大阪府立大学在学中の1970年「大阪交通遺児を励ます会」において故山本君と交通遺児支援の市民活動を始めた古くからの仲間である。ブラジルに渡った彼はそこで奥さんと出会った。夫人はイタリア系とのことだった。その際に、私もいろいろ走り回って彼の移住を応援したことを思い出した。
飯野君はブラジル南部のパラナ州の州都クリチバに住んでいる。サンパウロから約450㎞、空路で1時間弱のブラジル南部では最大で白人が多い都市だ。
24日の午後、私はクリチバの空港に降り立った。南部最大の街ではあるが、ブラジルの田舎を感じさせる静かな所だった。クリスマスということもあるかもしれない。ブラジルは敬虔なクリスチャンが多く、クリスマスは家族と静かに過ごす。今日から2日間、私と秘書の村山君は彼の家族として過ごすことになる。空港に迎えに来てくれた飯野君は昔と変わらない細身な姿で人のよい朴訥とした語り口も変わっていなかった。寡黙で朴訥なところは、陽気なラテンの血も寄せ付けないのか。私は彼を見直した。
彼はクリチバ郊外で文房具店を開いている。文房具を扱う他、印刷・簡易製本サービスを提供しているという。そのお店はこじんまりしていたが、地域に根差して誠実に商売をしている雰囲気が漂っていた。家に着くと、奥さんと写真では幼子だった息子が185cmという長身に成長していて、私は彼に覆いかぶさられるように挨拶された。息子のケンジ君は名門大学Pontifícia Universidade Católica do Paraná(略称PUC プッキ)商学部に特待生で入学したので教育費はすべて無償という親孝行だ。
24日の晩は家族3人の中に混ぜてもらい、ささやかではあるが温かいブラジル家庭のクリスマスを静かに楽しんだ。ケンジ君へ父親の若い頃の話をすると、彼は真剣な眼差しで聞き入りながらいろいろなことに思いを馳せているようであった。最後には私を「おじいちゃん」と呼んでいた。
ブラジルに根差して生きている飯野君の姿と息子のケンジ君を見ながら、長い時の流れと未来への光をみた。クリチバでのクリスマスは安心と温かさを感じる貴重な2日間であった。
2011-11-02
富士通・間塚道義代表取締役会長と富士通本社で初会談
あしなが育英会の玉井義臣会長は、11月2日午前、富士通本社を訪問し間塚道義代表取締役会長と会談した。この会談は3月11日の東日本大震災の際にあしなが育英会が行った被災者への支援活動を知った間塚会長の呼びかけで、10月14日から開催された富士通レディース・ゴルフトーナメントの前日に行われたプロ・アマ・チャリティーゴルフの収益があしなが育英会に寄付されたことがきっかけで実現した。
冒頭で間塚会長の出身地が、玉井会長が学んだ滋賀大学に近い長浜市であることが話題になり、会談は和やかな雰囲気で始まった。
会談の内容は多岐にわたったが、やはり両会長を引き合わせるきっかけになった、3月11日の東日本大震災の話題でスタートした。玉井会長が海外出張でウガンダに向かっている最中に東北の震災が起こり、現地に到着してすぐにニュースを知り日本にとんぼ返りしたこと、震災発生からわずか2日間で、地震と津波で親を失った子供たちのために、何に使ってもよい返済義務のない特別一時金の給付を決めたこと、この特別一時金給付の即決が海外から高い評価を受けたこと、また一時金給付の情報を一人でも多くの被災者に伝えるために、あしなが育英会の職員と奨学生が協力しあって被災地を奔走したことを説明した。何度も深くうなずきながら説明を聞いた間塚会長は、震災直後にあしなが育英会が見せたスピード感と機動力は素晴らしかったと、賛辞を送った。間塚会長も地震発生時は出張でニューヨークに滞在しており、テレビで被災直後の現地の映像を見た。“現実かと疑った”と、惨状を映し出した映像から受けたショックについて語り、急いで日本に帰国したことなど、当時の状況を振り返った。
震災後、復興支援に人員を回すため、様々なイベントを中止または延期せざるをえなかった富士通は、10月の富士通レディース・トーナメントは復興支援の意味も込めて予定通りの開催を決めた。長年にわたりプロアマトーナメントの収益をさまざまな団体に寄付してきたが、今年は間塚会長の脳裏に3月の地震と津波で親を亡くしたたくさんの子供たちのことが浮かんだ
という。今年は寄付金が直接被災者にわたる団体を選ぶように担当者に要請したところ、結果あしなが育英会に決まった経緯を玉井会長に説明した。玉井会長は間塚会長に感謝の意を述べた。
この会談の日程は玉井会長のスケジュールの関係で、何度か変更された。それでも間塚会長が辛抱強く待ってくれたおかげで会談が実現した。そのことに玉井会長がふれると間塚会長は、あしなが育英会の活動は40年にわたり長く続いている、玉井会長は76歳という年齢にもかかわらず、海外にも活動を広げておりそのバイタリティーを吸収したいと思った、と会談への思いを語った。
その後、話題はあしなが育英会の名前の由来になったジーン・ウエブスターの小説”足長おじさん“に及んだ。小説の発刊から来年がちょうど100周年になることから、著者ジーン・ウエブスターの出身校である米国のヴァッサー大学とあしなが育英会が共同で、留学プログラムや、貧困に喘ぐウガンダの子供と、富裕層の子女であるヴァッサー大学の学生によるイベントを準備していることを玉井会長が間塚会長につたえ、富士通の応援を要請した。
続いて間塚会長が玉井会長3月の地震・津波以来、富士通が行ってきた東北復興のための支援活動を説明した。富士通は社会インフラを担う企業の使命から、病院、消防、警察、自治体等のシステム復旧を最優先に掲げ、ICT(情報通信技術)を通して国や地域の復興を支えていること、また震災時には神戸や中越の震災を経験した土地勘のあるメンバーを中心に全国からのべ1,500人の応援隊を東北の現地に送り込み、お客様の元に直接足を運んでの支援を行ったことなどを説明した。間塚会長は新しい安心で安全なまちづくりを目指し頑張りたいと述べ、玉井会長にあしなが育英会の協力を求めた。
両会長は今後も情報を交換し合いながら互いに協力していくことを確認し、1時間20分に及んだ会談を終了した。
2011-09-29
日本経済新聞2011年9月22日付夕刊9面 「ニュースな人ヒト 官房長官藤村修さん」
「首相を立てる」に徹する官房長官-藤村修さん
裏方で光る堅実さと度胸
http://t21.nikkei.co.jp/g3/CMNG011.do?r=xxKan64201&ls=30016831-1
2011-08-27
機関紙「NEWあしながファミリー」118号・共生(コラム)☆「(生活)特別一時金」のスピード制定が称賛と信用高める☆勇気あるNY募金がASHINAGAを世界的にした☆
今年ほどあしなが育英会への評価が急激に高まったことはない。運動の実績への評価、それにくっついて上がる信用は四十余年運動を創業し牽引してきた私にとって実に快い手応えである。
日本人の評価の第一は、「津波遺児」たちへの支援策に日本一のスピード感があったことだろう。
地震発生時の「3・11」、私は出張先のアフリカのウガンダの、ホテルで荷を解きTV(CNN・CCTVなど)をつけた。経済市況をやっていた。とたん画面が急変、大津波の襲来で人、家、自動車が大きな流れに翻弄されている。相当高いビルも壁にスッポリ丸が開いたり、倒壊している。堤防も水をせきとめられず用をなさない。痛ましいのは人と思われる〝物体〟が引き潮のときTVに写し出される。外国版はノーカットで残酷で思わず目を覆う。家族も親戚も友だちも家財も自動車も、そして多くの想い出のよすがであったアルバムも、形になっていないそれぞれ一人ひとりの〝お宝〟も海の彼方に押し流された。辛い。恐ろしい。悲しい。空しい。黒い光景だ。そのとき、東京本部から電話。「午後、副会長らと常勤理事らと事務局長らは対策を議論したが、会長(玉井)がいないと決着がつかない、一番早い便で帰国してほしい」と吉田事務局長。ウガンダのあしなが事務所であるレインボーハウスに寄って帰る暇もなさそうで、トンボ返りを覚悟した。
日本への飛行機が出るのは翌12日16時15分発のエミレーツ機で、途中、エチオピアとドバイで止まって成田着は3月13日17時半。時差を抜くと20時間位になる。大変な長丁場だ。
一夜寝て機中の人となる。乗り物の中ではメモ片手にさまざまな思いをはせる。何が問題なのか。どうすれば問題解決するのか。日本の新聞もなし、報道なしの状態だ。でも問題点の整理をしつつ一睡もせず、考え続ける。
対策のポイントは〝着の身着のまま〟の被災者にしぼる。ほとんど無一物の状態を想定する。そうこう考えているうちに、日本の成田空港に着く。日本時間で17時35分。直ちに東京本部に。
私が帰国前、3月13日午前中、4副会長(下村、村山、村田、藤村は代理)と、小倉弁護士、会からは吉田事務局長、監事の山北、理事の林田、小河が参加して問題点と緊急支援の対策について議論したが、会長不在のためまとめるまでに至らなかった。
同夜帰国、副会長会議の説明を受け発言した。被害者は〝着の身着のまま〟が救済のポイントと考えると、①教育費より何に使ってもいい「使途自由」、②本会初めての、「貸与」でなく「給付」にすべきである。③「返済不要」と断を下し、直ちに副会長に電話で説明し承認を得た。こうして3・11 から2日後、〝生活〟一時金は日本で一番早く誕生した。
次は制度を知らせることだ。ローラー調査は海なので、神戸のように一軒々々を回る方法は不可能。東北事務所(林田吉司所長と職員6人)より5台の自動車に学生と職員が乗り、3日間、5班に分れて被災地に向かい、避難所、公民館、役場などに生活一時金の制度を知らせるキャンペーン。これも車で回るローラー調査である。7月14日現在、申請者1638人。送金額は1487人に9億4650万円。被害者の実態はわからないが、推定で2000人まで増えると予想。神戸地震遺児の最低4倍になる。
このキャンペーンは「お知らせ隊」と呼んだが、道なき道を進むのは難行苦行だったが、各地にいる大学奨学生たちが、すぐ集まって手伝い、決めたことをすぐ実施できた。これがあしながが注目され拍手される「スピード決定」に次ぐ「機動力」だ。
大きな団体に寄付してもいつどこでどう使われるかわからない。あしながは、遺児を探し当てる神戸以来のノウハウを持ち、いつも他団体より第一に達成する。木曜日までに申込書が届くと、次の月曜日には銀行送金しているこの速さに信用がさらに増す。今のところ、それにかかる費用はあしなが育英会からしか出さない。超クリーンな会計だ。〝生活一時金〟は、約10億円を支給し終えた。
次の目標は、東北レインボーハウスだが、早くも候補地はほぼ目途がついたが、建設費約30億円も必要だ。海外の募金網も広がってきたし、設計と並行して、目標の2年後には建てたい。建設資金も巨額だが、過去の経験からすると、案外早く集まる予感。
一番根気のいる仕事は、東北人の老若男女を〝癒しのボランティア〟にする壮大な計画。ファシリテーター養成講座をきめ細かく各地で実施する中長期の目標をはずせない。「千年に一度」の津波なら、百年がかりで〝東北人みな癒し人〟を実現したい。そこに東北伝来のやさしい顔と心があるはずだ。
6月には米国NYで、内外30社の世界のマスメディアに記者会見。タイムズスクエア前で、津波遺児らが街頭募金をした。日本の新聞は大きく日本に配信。ニュースの巨人CNNが何回も何回も世界に配信し続けた。ABCが追っかけ取材に加わり、今、BBC(英)は60年間の人気番組「PANORAMA」でも取材を始めた。日本の小さなNPOは世界の「ASHINAGA」になった。外国からの寄付がふえている。35度の暑さの中でTSUNAMI遺児5人と学生募金の海野事務局長とPウォークの櫻井実行委員長と一緒に私も声を張りあげていた。道往くニューヨーカーは陽気でやさしかった。遺児たちも心から顔一杯で微笑んでいた。40年前、同志岡嶋信治君らと東京数寄屋橋で旗揚げ募金をした時のことを想い出し感無量だった。
寄付の申し出も、世界最大の教科書会社で辞書でも有名な「ピアソン社」は、英国のフィナンシャルタイムズ紙で半頁のASHINAGAの広告を予定している。
9月のダボス会議(ユース部門・中国大連)に津波遺児が招待され、10月には日米有識者会議(米国・ワシントン)に招待されるなど、ASHINAGAを評価する企画が進んでいる。NY効果だ。
新しい道を踏みしめて、世界2億人遺児の救済と共生に向けて歩をさらに進めよう!
(2011・7・14記)
※本会機関紙を是非、定期購読ください。お申し込みは、こちらから