玉井義臣 教育こそ百年の計 遺児と共に43年

2013-12-03

秀逸「なくなってしまえ車」の後日談

お父さんを交通事故で亡くした翌年、お母さんと

「なくなってしまえ車」

このせまい国に多すぎる車
どこを歩くにも頭から
車くるまとはなれない
朝学校へ行く時決って
母の声が迫ってくる
「車に気いつけや」
かならず三回は同じことを言う
わたしも「わかってる」と三回は答える
そして「おかあさんも気いつけや」と言う
母も「わかってる」と答える
これがわが家のしんけんな
いってきますのあいさつだ

(中略)

こんなに人をころしてまで
たくさんの車がいるんやろか
車がすくなくなるかわりに
国がびんぼうになり
わたしの家もびんぼうになっても
おとうさんが生きている方がずっといい
なくなってしまえ車なんか

奥出昌子(小学3年生:当時)

 この遺児作文はたくさん全国で書かれた遺児作文集の中の一遍で、「天国にいるおとうさま」中島穣くん(当時10歳)の詩(爆発的人気で当時交通遺児育英会づくりのきっかけをつくった。)と、僕玉井はこの2作が双璧だと思う。

 昨日12月2日、僕は昌子さんと、四十余年前、大阪交通遺児を励ます会のお兄さん 飯野俊男さん(当時大阪府大生)の長男 健治くんと食事をしていた。飯野さんの盟友山本孝史さん(故人。政治家の最後の仕事に「がん対策基本法」と「自殺対策基本法」をつくって。自らはがんで壮絶な戦死をした。)は藤村修さんと政治家に。飯野さんは大学中退してブラジルに移住した。年月が流れる。飯野さんは電照菊づくり農家で働く。僕は時々会っていた。


右からさゆりさん、健治くん、昌子さんと玉井の嬉しい食事会


 食事会には東京で高校の英語の先生をしている昌子さんと僕、それに20歳の健治くんとフィアンセの日系三世のさゆりさん。健治くんはこの1年間で英語と日本語が滅法うまくなった。文房具店を営んでいる父親の俊男さんはこれで一生日本語がつかえる。母親のイタリア系のネリーさんにはブラジル語がネイティブのさゆりさんが嫁にくる。健治くんは大学の特待生で親孝行。飯野家には23年ぶりに日本語、ポルトガル語、英語が飛び交う楽しいわが家となる。
 国際結婚は大変だが、皆努力すればすばらしい「わが家」が築ける。僕はホッとした。

(2013.12.3 記)