玉井義臣 教育こそ百年の計 遺児と共に43年

2013-12-26

ハイチの未来を担う21歳と出会う


 あしなが育英会の活動や理念が海外の若者の心も掴むのか、時々事務所に海外の若い方がやってくる。
 今日はステファン・フォーシェ君という青年が訪ねてきた。ステファン君はカナダ生まれ。ご両親はハイチご出身だそうで少年時代はハイチで過ごしたそうだが、12歳の時にニューヨークに移住。ハーバード大学に入学後、日本文化に興味をもち、日本語を学び、インターンシップで初来日。日本企業でインターンをした後、そのまま九州大学に留学しているそうだ。2年間勉強しているという日本語は大変流暢で驚いたが、母国語のクレオール語の他、フランス語、英語、スペイン語そして日本語...実に5か国語を操ると聞いてのけぞった。
 ステファン君は日本企業でインターンをしていたということを聞いて、我々あしなが育英会として今夏始めた「あしながインターンシッププログラム」の話をした。
 このプログラムは英国オックスフォード大学や米国プリンストン大学をはじめとする世界の一流大学から現役学生が夏休み期間の約2か月間、大学生遺児のための学生寮「あしなが心塾」(東京)や「虹の心塾」(神戸)もしくはウガンダの「あしながウガンダ」に滞在し、日本人学生やウガンダなどの海外留学生らと生活を共にしながら英会話レッスンや、ディスカッション他さまざまな活動をしてもらう。英語を中心とした異文化コミュニケーションを促進させることにより、遺児である学生たちが「自尊心」や「自信」を見出し、自立を促す目的で始めたが、狙い通りの大成功だった。
 来年度はインターンシップ生を大きく増やしてさらに充実したプログラムを目指したいと思っていることをステファン君に語った。
 澄んだ目でじっと私の話を聞いてくれたステファン君は、日本企業でのインターンシップで大変貴重な実務経験を得られたこと、何か日本に対する恩返しという気持ちも含めて、我々のあしながインターンシッププログラムに是非協力したいと言った。とても嬉しかった。
 また、ハーバード大の学生として、ハーバードがこのプログラムに積極的に関われるよう橋渡しできたらとも言ってくれた。ステファン君のような若者とあしながインターンシップやアフリカ遺児100年構想、そして未来の夢を語り合っていると、こちらも気持ちが引き締まる。彼のような若者たちがどんどん日本、あしなが育英会でいろんな経験をしてそれぞれの場で活躍していって欲しいと願ったひと時だった。


2013-12-19

「百年構想の賢人」探しの旅

ルイ シュヴァイツァー氏(中央)と100 年構想会議= 11 月25 日。   右へ富永氏、マセ駐 日フランス大使。左へ玉井、藤村

 父が、尼崎で15年の丁稚奉公の後、池田で金網の商売を親方から暖簾分けしてもらって独立したのは父25歳母23歳。
 11人生んだはずの子はいま、末っ子の僕78歳と長兄89歳の2人だけ。いろんなことがあったろうが、ちっちゃな店を父と長男で守りきった。兄は1月大腸がんの手術をしたのが肝臓に転移したのを今月3センチ摘出し、元気に回復中。来年4月の百周年は大丈夫そうだ。
 弟の僕はパーキンソン病で車イスに乗りながら、ヨーロッパ5ヶ国(仏パリ、英ロンドン、伊ローマ、墺ウィーン、独ベルリン)で、のべ7人の大使と会い、百年構想の外国人の知恵袋である「賢人」探しを依頼し、2賢人との会談をこなせた。
 伊のミケリーニ賢人との対談は河野大使も入られ絶好調の鼎談(ていだん)になり、話がはずんでおもしろかった。TVジャーナリストの大先輩に胸を借りる格好で愉快。
 英のトーマス卿は全英大学協会前会長ですばらしい人格の産婦人科医。兄弟が二人日本に住まわれ、「君の評判は聞いている」と軽いジャブに体がのけぞる。
 お会いしたのはお2人だけだったがその国を代表する学識経験者。例えば、5大陸に5つの百年構想の組織をつくり、「あしながアフリカ」ヨーロッパ事務所をパリに置く。アフリカから欧州の大学に行きたい遺児と大学を結び付け(マッチング)、よりよく留学話がうまくいくように賢人のご意見を聞きリーダーを育てようというもの。賢人の役割は大きいが、2賢人に会って、この百年計画は間違いなく成功する確信を得た。
 賢人だけでなく、インターン生の世界ネットワークをつくれば、世界で最も貧困な1日1人1.25ドルで生活(遺児はもっと低い)するサブサハラ49か国も20~30年もすれば貧困からの脱出が始まる。世界から新あしながさんの「やさしさ」集めて世界を変えたい。
 小説「あしながおじさん」刊行百年を契機にコラボコンサートの仙台初演が決定。それがさまざまに開花していく。そのエネルギーと勢いに驚くばかりだ。
(2013.11.28記)

※このエントリーはあしなが育英会機関紙「NEWあしながファミリー」130号・共生(コラム)からの転載です。


関連タグ:共生 

2013-12-14

パリの佳き友、フランス政府から叙勲さる

筆者と小松一郎 内閣法制局長官


 昨日、12月13日午後7時から、駐日フランス大使公邸で、前駐フランス日本国大使の小松一郎氏(現内閣法制局長官)に、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章コマンドゥールが授与された。クリスチャン・マセ駐日大使は小松氏の業績を紹介した後、勲章を氏の首にかけた。
小松氏はすぐそのあと流暢なフランス語で次のようにお礼のあいさつをした。
「フランス政府から名誉ある勲章をいただくことになったことは、誠に身に余る光栄であり、感激に堪えません。今回の叙勲は仏政府の格別のご配慮の賜物であり。親愛なるクリスチャン(・マセ駐日大使)やルイ・シュバイツァー外務大臣特別代表を始めとする方々の特別のお口添えがあってこそ実現した叙勲と確信します。御礼の言葉もありません。」
とまずお礼を述べた。

 「私は、1972年に外務省に入省後、本人の希望どおりフランス語研修を命じられ、札幌冬季オリンピックの翌年の73年から2年間、フランス語を実地で学ぶ幸運に恵まれました。1年目はグルノーブルでした。この地でスキーを学び、以来スキーは私の最も愛好するスポーツです。2年目は南仏のエクサン・プロヴァンスでスキー以外の多くのことを学びました。20代前半の多感な時期をフランスの地方で暮らし、多様性に富むフランスの自然、文化、人情にふれたのは得がたい体験でした。以来、世界の様々な国で勤務しましたが、フランスはいつも私の「第二の故郷」であり続けました。」と若き日のフランスとの濃密な体験を述べました。
 「その後、本省勤務、在外勤務を繰り返し、アジア、北米、欧州の計5回在外公館で勤務しましたが、パリとは縁がなく、最初のパリ勤務を終えてから37年間を経て駐フランス大使に任命された時には、長い旅の末に故郷に帰ってきたような言いようのないなつかしさを覚えたものです。大使赴任直後にオランド大統領の日本重視政策の下で、ルイ・シュバイツァー特別代表や仏側関係者の絶大なご協力を得て、実に17年ぶりのフランス大統領の国賓訪日を早期にかつ成功裏に実現できたことは、私にとって誠に幸運なことでした。真に「大使冥利につきる思いです。すべての関係者の方々に心から感謝申し上げます。
 『自由』、『民主主義』、『市場経済』、『基本的人権の尊重』、『法の支配』といった、その多くがフランス革命に淵源を有する基本的価値が、いまや国際社会の普遍的な価値に昇華されています。日本は、歴史を通じてフランスから多くのことを学び、フランスとこれらの基本的価値を共有するパートナーであることを心から誇りに思っています。」と述べた。
(中略)


小松長官夫人 まりさん

 「最後に、これまで30余年私の活動を支えてくれた家内に心から感謝の念を捧げたい。本日頂いた勲章も半分は家内が頂戴したものだと思います。」とかたわらに立っている、まり夫人への愛情のこもった労いの言葉でスピーチを締められた。
 30余年の外交官人生を二人三脚で歩んできた日々を祝福するように、小松氏の首にかかった勲章の宝石の輝き、まり夫人の素敵な和服姿へ参会者からは暖かい拍手が鳴り止まなかった。

 筆者(玉井義臣)は本会の「アフリカ遺児教育支援百年構想」への欧州支援拡大のために訪れたパリで、ちょうど赴任直後だった小松氏と知り合った。氏には何度となく大使館や公邸で親身に相談に乗っていただいた。パリで語り合った時を思い出しながら、感謝の想いでいっぱいの祝意をご夫妻に述べた。



2013-12-05

アマゾンの豪傑 一時帰国

定森徹さん


 定森徹さん((社)日本ブラジル交流協会12期生)がブラジルから打合せ等のために一時帰国した。あしなが育英会の事務所に顔を出したので、玉井ならびに藤村副会長と語り合い、友人の岡田麻衣、藤井雅規、渋谷敦志が加わった。

 定森さんは、現在、国際的な保健医療協力で人類に貢献する「特定非営利活動法人HANDS」(代表:中村安秀 大阪大学大学院教授)のブラジルプロジェクトマネージャーをしている。現地アマゾン川上流にあるマニコレ市(九州とほぼ同じ面積に約5万人が住む)を拠点に、日夜、現地スタッフを含め住民の保健衛生改善指導やアマゾンでの持続可能な農業の実現に尽力している。


 また近年、アフリカ南西部に位置するアンゴラ共和国では日本とブラジル三か国での保健状況改善プロジェクトが進められている。定森さんは、国際協力機構(JICA)の専門家としてこのプロジェクトに参加し、現地での保健医療の人材育成やシステム強化に取り組んでいる。アンゴラはブラジル同様ポルトガル語を公用語とし、国土は日本の約3.3倍。定森さんはブラジルの経験を活かし、アフリカでも広まりつつある「母子手帳」作成に着手。“アンゴラに適した”母子手帳にするため、日々奔走している。

 1989年、定森さんはバックパッカーとしてブラジルを初めて訪れた。92年に山梨大学を卒業すると、日本ブラジル交流協会の「ブラジル研修留学生」としてブラジルに渡り、1年間、ファベーラ(スラム街)の子どもたちに識字や職業教育をボランティアで行なった。その後、帰国するが、再び現地に戻りNGOを立ち上げ、診療所増設やエイズ予防啓発活動に携わり、エイズ孤児ケアホーム開設後はそこに住み込みで働いた。97年から出産方法指導など母子保健のプロジェクトに従事している。誠心誠意、20年以上もブラジルに貢献しており、今はブラジル女性と結婚して1男を育てており、大声で笑う日本人離れしたところもあるが、帰国すると必ず玉井、藤村を訪ねてくれるところは昔の日本人のように律儀である。45歳、アマゾンで人生の半分を送る豪傑である。

(2013.12.4 記)


2013-12-03

秀逸「なくなってしまえ車」の後日談

お父さんを交通事故で亡くした翌年、お母さんと

「なくなってしまえ車」

このせまい国に多すぎる車
どこを歩くにも頭から
車くるまとはなれない
朝学校へ行く時決って
母の声が迫ってくる
「車に気いつけや」
かならず三回は同じことを言う
わたしも「わかってる」と三回は答える
そして「おかあさんも気いつけや」と言う
母も「わかってる」と答える
これがわが家のしんけんな
いってきますのあいさつだ

(中略)

こんなに人をころしてまで
たくさんの車がいるんやろか
車がすくなくなるかわりに
国がびんぼうになり
わたしの家もびんぼうになっても
おとうさんが生きている方がずっといい
なくなってしまえ車なんか

奥出昌子(小学3年生:当時)

 この遺児作文はたくさん全国で書かれた遺児作文集の中の一遍で、「天国にいるおとうさま」中島穣くん(当時10歳)の詩(爆発的人気で当時交通遺児育英会づくりのきっかけをつくった。)と、僕玉井はこの2作が双璧だと思う。

 昨日12月2日、僕は昌子さんと、四十余年前、大阪交通遺児を励ます会のお兄さん 飯野俊男さん(当時大阪府大生)の長男 健治くんと食事をしていた。飯野さんの盟友山本孝史さん(故人。政治家の最後の仕事に「がん対策基本法」と「自殺対策基本法」をつくって。自らはがんで壮絶な戦死をした。)は藤村修さんと政治家に。飯野さんは大学中退してブラジルに移住した。年月が流れる。飯野さんは電照菊づくり農家で働く。僕は時々会っていた。


右からさゆりさん、健治くん、昌子さんと玉井の嬉しい食事会


 食事会には東京で高校の英語の先生をしている昌子さんと僕、それに20歳の健治くんとフィアンセの日系三世のさゆりさん。健治くんはこの1年間で英語と日本語が滅法うまくなった。文房具店を営んでいる父親の俊男さんはこれで一生日本語がつかえる。母親のイタリア系のネリーさんにはブラジル語がネイティブのさゆりさんが嫁にくる。健治くんは大学の特待生で親孝行。飯野家には23年ぶりに日本語、ポルトガル語、英語が飛び交う楽しいわが家となる。
 国際結婚は大変だが、皆努力すればすばらしい「わが家」が築ける。僕はホッとした。

(2013.12.3 記)