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東日本津波遺児支援 パリ市で「東日本大震災を考える集い」開催

2011年12月14日 [プレスリリース]

フランス・パリ―2014年12月13日
 あしなが育英会は、パリ市にあるパリ・日本文化会館で、「東日本大震災を考える集い」を開催し、約200人のパリ市民やフランス在住の日本人が参加しました。18時、オープニングのファンファーレの替わりに、和太鼓が打ち鳴らされると、司会進行役のケイコ・クルディーさんからイベントの開始が告げられました。


 まず、下村博文・あしなが育英会パリ訪問団名誉団長(自民党衆議院議員)がスピーチを行いました。あしなが育英会第一期生でもある下村氏は、当会が震災直後に特別一時金の支給を行うなど、地方自治体がまだ機能できていない時から、被災者支援を行ったことを説明。また、当会が親を失った子どもに心のケアや寮施設を提供するために建設を予定している”東北レインボーハウス”への支援を訴えるとともに、「私たち日本人は、千年に一度の国難であろうが、歴史上はじめての国難であろうが、これで負けることはありません」と、力強く語りました。


次に林田吉司・あしなが育英会東北事務所長が、大型スクリーンに投影された映像を使いながら、東北の被災者の現状を説明しました。数々の実例を挙げた林田所長の話を聞いて、参加者は被災者が現在置かれている過酷な状況を、十分に把握することができました。(全文は下記参照)


 続いて登壇した仙台の津波遺児、日下マリアさん(16)と菅原彩加(15)さんが、それぞれ津波に襲われた時の悲惨な経験、あの未曾有の大災害から9か月たった今の心境、これからの人生の展望について語りました。


 特に、日下さんが父親を亡くした時の状況、菅原さんが母親を亡くした時の状況について話すと、客席には、涙をぬぐいながら聞き入る人が少なくありませんでした。その後、質疑応答の時間に入ると、参加者の一人から日下さんと菅原さんに、「つらい経験を話してくれてありがとう。あなたたちの話は決して忘れません」と感謝の言葉が述べられました。



 最後に、宮城県和太鼓連絡協議会から選抜された、8人の中・高校生を中心に編成された和太鼓チームが、今回のパリ訪問で5回目、最後の演奏を行いました。ステージ・ライトに照らされた8名が、落ち着いた、しかし、勇壮な約30分間の演奏を披露。「鼓音」、「躍動」、「賑わい」の演奏の後、女子メンバーによる「雀踊り」ですべての演目が終了。



 メンバー全員が横一列に並び客席に挨拶して降壇した後も、アンコールを要求する拍手が鳴りやみませんでした。再び登壇した久保泰宏・宮城県和太鼓連絡協議会長が、「アンコールは考えていませんでした。もう一度 『雀踊り』をやります」と言うと会場から笑いと拍手が起きました。これが本当に最後となる、女子メンバーと今野鏡子副会長による「雀踊り」が終わり、あしなが育英会主催、パリ日本文化会館後援の「東日本大震災を考える集い」は無事幕を閉じました。



林田吉司東北事務所長による東北の被災者の現状説明全文

(使用した写真は著作権等の理由で掲載できませんのでご了承ください。)

津波そのものの写真

春だが、雪が降った3月11日マグニチュード9の大地震が日本の東北地方を襲いました。 早い所で10分後には大津波が押し寄せました。 津波による被害が甚大で、OOTUNAMIです。 子どもは学校に、親は職場や家庭にバラバラにいる午後3時過ぎの出来事でした。

 街に押し寄せてくる津波(三陸の津波)の写真

岩手県に「命でんでこ」という風習、言い伝えがあります。 津波が来たら、寝たきりの老人がいても「ごめん」と言って老人をその場において自分だけ逃げてもいいという風習です。 絶えず津波に襲われた岩手県ならではの風習です。 そんな岩手でさえ6100人以上が犠牲になりました。 被災直後私たちに岩手の古老が語りました。 赤ちゃんを抱いた姿そのままで若い母親の遺体があがった。 ポンペイの遺跡で発見されたあの有名な赤ちゃんを抱いた母親の遺骸と同じ、 最後まで子をかばう母親の遺体があがったそうです。 津波に侵される街、押し寄せる瓦礫の写真 こんな子どもたちがたくさんいます。 みんなで一緒に高台に逃げる途中、 力尽きたおちびちゃんが流されていく そんな光景を目の当たりにした小学校の高学年生。 津波の恐怖と助けられなかった無念さは、 一生彼らの心をさいなみ、心の傷になるだろう。 2晩水に浮かぶ自動車の屋根の上で、死体の浮くそばで 寒さと孤独に震えていた子がたくさんいる。 過酷な体験はこの子の一生にどんな影響を与え、 どんな暗闇としてあらわれてくるのでしょうか! 人手不足の被災地で遺体運びを手伝わされた中学生もいました。

黒い虹の絵の写真

黒い虹を見てください。 9才のかっちゃんは16年前の神戸の地震で、 瓦礫の中に9時間閉じ込められていました。 やっと助け出され父と妹が死んだことを知る。 半年後かっちゃんはこの絵を描きました。 深刻な心の傷は後から出てきます。 神戸の震災から5年たったある日、「私が母親を殺した」と言う少女がいました。 その少女は宿題をしなかった。 宿題をしないその子に、朝早く起きて宿題をすればいいと母は言いました。 宿題をさせるため、翌朝いつもより早く起きて、母は台所で朝食を作っていた。 神戸の地震は早朝5時46分。 崩れてきた屋根の直撃を受けて母は死んだのです。 宿題をしなかった私が母を殺した、 誰にも言えず5年間心のうちに押し込んでいたのです。 繰り返します、深刻な心の傷や心的外傷後ストレス障害(PTSD)は後から出てきます。  

震災後の瓦礫だらけの津波跡写真

現在の東北の状況がこの写真です。 神戸の3倍強の犠牲者2万人弱、被災地の広大さは神戸の比ではありません。 この津波被災地の子の心の傷が出始めているのです。 片親を父を亡くした子は、遺された片親のそばから離れようとしません。 指をしゃぶる、おねしょをする、まとわりつく、赤ちゃん返りが甚だしい。 小学校1年生の男の子が学校でゲームの時間、 「お父さんのいない子手を挙げて」とやった。 ビーチボールをボランティア相手に2時間ぶっつけ続けた少女がいました。 言葉も汚く、乱暴に遊ぶ男の子は数はとても多いものです。 学校の体育館をみると、父の遺体が安置されていた体育館を思い起こし胸が苦しくなる子がいます。 潮風潮騒に、海鳴りに、海の匂いに、救急車やパトカー、ヘリコプターの音に 敏感に反応し、立ち尽くす子がいます。 過酷な体験や耐え難い悲しみ苦しみを秘めた遺児には、 きっと私たちとは違って風景、事柄、物事が映るのだろうと思います。

遺児の写真

当日サイレンが鳴って、妻を家に残し配置についた30代の父親は消防団員でした。 津波で両親と妻を流され、10歳の男の子とふたりっきりになってしまいました。 津波直後は救援活動を余儀なくされました。 2週間で300体近くの遺体を運んだそうです。首だけも3つあったそうです。 妻へ一言、高台へ逃げろと言わなかったことが今でも、悔やんでも悔やみきれません。 亡くした妻の両親は「消防団のくせに妻一人も助けられなかったのか」 口をきいてもらえないそうです。 夜になると同年代の被災者が集っては酒を呑みかわす。 「お前はまだいいよ、子供が一人残って」家族全員を亡くした友人が言うそうです。 酔うと、その友人は俺はこれから死ににいくと海の方角へ走っていく。 その都度、追っかけては何度か止めたことがあるそうです。 子を支える親がこのような状況です。 被災地には心が満身創痍の大人と子供があふれています。

 廃墟の空しさいっぱいの写真

震災から9か月が経ち、瓦礫はうず高く積まれています。 廃墟と化した床だけのコンクリの白さの上に さらに白さを増す雪が舞い散る寒い冬を迎えました。 被災者の自殺者急増が心配されています。 日本で先月NHKが、お国の哲学者アランの『幸福論』の解説を4週続けて放送しました。 この津波による大打撃、日本には元気がないのです。 失われたものが大き過ぎるのでしょうか。 人間にとっての幸福とは何か、立ち止まって先人の教えに耳を傾ける人が多いように思えます。

レインボーハウスの写真

遺児が、家でも学校でも言えないつらい気持ちを表現できる、 周りの人に気兼ねせず涙を流せる、 黒い虹が七色の虹になるまで、 心のケアをするため、 子どもが点在する地域5か所にレインボーハウスを建てようと思います。

 『生きる』写真

女川の被災当時中学3年生の神田瑞樹さんが、この絵を描きました。 瓦礫と化した女川の街を前に、敢然と立ち向かうシャベルを背にした子が5人。 子どもたちに寄り添い、子どもたちと一緒に復興を果たさなければなりません。 フランスの優しい皆様にお願いをしたい。 どうぞお力をお貸しください。 ありがとうございました。     以上


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