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保護者インタビューまなざし「断捨離で取り戻した私らしさ」

保護者インタビューまなざし#31

「断捨離で取り戻した私らしさ」

横澤久子さん(神奈川県 50代)

 

久子さんは10年前に夫を亡くした。長女が5歳の時だった。ずっと手元に置いていた夫の遺骨を、没後10年の節目に海へ流した。夫の持ち物や、古い写真なども処分した。「婚姻届けに判を押した責任で、私が夫の人生のカタをつけなくてはと思いました」 悲しみも、苦しみも、寂しさも、難しさもたくさんあった、この10年間の歩みと胸の内を語って頂いた。

山を愛するふたり

夫とは、大学の先輩後輩として出会った。夫は探検部の部長。久子さんは別の登山サークルの部員だった。山登りは2人の共通の趣味だった。

「登山サークルの仲間とは、ゴールデンウィークに八ヶ岳登山をし、夏休みに北アルプスの10日間縦走をするのが恒例でした。大学の4年間、毎年です。眼下に広がる雲海を見て、冷たい空気が肺に入るのを感じて…。山の美しさと厳しさは感動的でした。夫と山に行くことはありましたけれど、彼はスピード感をもって山登りしたい人で、私はゆっくりと景色を眺めながら登りたい人。登山のスタイルも価値観も全然違っていました」

 

登山をする体力もあり元気いっぱいに見えた夫だったが、30代になって間もなく、悪性リンパ腫を患った。幸いなことに寛解したが、病気のことはいつも2人の頭に残った。

「病気のこともありましたが、お互い縛られるのは嫌いなので、結婚はせず一生独身でいくだろうと思っていました。でも、叶うことなら子どもが欲しいと思い始めて、夫の身体を立て直すために、食事療法に取り組みました。娘を授かったのは、私が40歳の時。それを機に入籍をして、私たちは夫婦になりました」

 

感染症に注意を払うなど、夫の健康に気を遣う日々は続いたが、夫は赤ん坊との生活を喜んだ。長女が歩けるようになると、一緒に丹沢の山々を歩いた。4歳になったころには、親子3人で富士山に挑戦できるほど、長女の足は強くなった。

「娘は、自力で富士山頂まで行きました。ところが、山頂付近で高山病になった小学生2人をたまたま見かけた夫は、体調が悪いその子たちの1人を背負って下山して、すぐに戻ってきて2人目を背負って下山しました。ピストンで2往復したのです。娘が『自分はおんぶしてもらえないの?』といって不機嫌になったのを覚えています」

 

Mt.Fuji

富士山の頂上でみた美しい朝日

 

平穏で幸せな生活が続いていたが、ある冬の日、夫は熱を出し、気分が悪いと訴えた。インフルエンザかもしれないと心配になり、夜中に救急搬送を要請した。夫が診察室に入ると扉は閉じられ、久子さんと長女は廊下で待たされた。短時間のうちに夫の体調はさらに悪化、3時間ほどの間に「会いたい人がいれば連絡を」と医師に告げられた。長女と2人で見守る中、夫は遂に帰らぬ人となった。

暗闇の中で辿り着いたレインボーハウス

あっという間の出来事だった。夫は2人を残して逝ってしまった。

病院にいた時間が24時間未満だったことから、久子さんは警察で事情聴取され、家の状態も調査された。検死の結果は小脳出血だった。悪性リンパ腫の再発でも、感染症でもなかった。

 

生前の夫に脳の病気を感じさせる予兆はなく、食事量が減るなどの変化もなかった。しかし、久子さんは夫の身体全体から伝わる、わずかな変化を感じ取っていて、なぜか胸騒ぎがあったという。「検査を受けて欲しい」と伝えたのは、亡くなる1~2カ月前の話だ。だが、夫は検査を受けなかった。そんなことも悔やまれた。

 

久子さんは、悲しみの深さに衰弱してしまった。夫の死を受け入れることは難しかった。何とか日々をやり過ごしながらも、自分の体調や心の状態がアップダウンを繰り返しているのが分かった。かろうじて己を保ちながら、子どもの面倒をみて1年半が過ぎたころ、あしなが育英会のレインボーハウスとつながることになった。

 

「夜中、眠れない時間に、ネットで見つけた『自殺って言えなかった。』(サンマーク出版 自死遺児編集委員会 あしなが育英会編)を読みました。あしなが育英会やレインボーハウスを知ったのは、この本がきっかけです。暗闇の中で辿り着いたともしび…とでもいうのでしょうか。日野市のレインボーハウスを訪ねてみると、スタッフが自然な感じで迎え入れてくれたのが印象的でした」

 

レインボーハウスでは、子どもと保護者は別々のプログラムに参加し、保護者は大人だけで過ごすことになっている。話をするのがメインだが、手芸など手作業をしても、ただゆっくり休息してもいい。

「レインボーハウスはホッとできる場所です。夫や死別について、ちゃんと話ができる場所は、他にはありません。シングルマザーは、私の身近にも、少なからずいると思います。でも、最初からシングルマザーを選んだ人、離別してシングルマザーになった人と、死別でシングルマザーになった人とは、やはり違うのです。死別の私は心身のダメージが大きく、なかなか前向きなエネルギーが出せずにいました。レインボーハウスで仲間のお母さん、お父さんたちから話を聞くうちに、『今は、そんな自分でもいいんだ』と自分を肯定できたと思います」

 

仕事や学校が休みの日に外出すると、家族連れが目に付いてしまう。幸せそうな家族の姿を見るのは、やはりつらかった。土日なんて無くなればいいと思いながら過ごしていた久子さん親子は、月に1度のワンデイプログラムや、年に1度のつどいに救われた。プログラムを通して仲間やロールモデルと出会い、様々なことを体験できた。

「お父さん、お母さんたちの話を聞いて、伴侶との別れから3年、5年、7年…と時間が経つにつれて、どう心境が変わっていくかも分かりました。痛みは消えなくても、3年経つと鈍痛に変わっていくのかな、7年経つと随分違ってくるのかな…と、先を考えられるようになりました」

 

baby and husband

長女と夫の幸せな時間

親のグリーフが抜けかけたころ、子が力尽きる

「娘が小学1年生のゴールデンウィークに、レインボーハウスのプログラムに参加しました。お隣に座ったお母さんが『うちの子不登校なんだけれど、聞いたら皆さんが、うちも不登校よ、うちも不登校よっておっしゃるんで、ホッとしました』と泣いていました。レインボーハウスで不登校の話題はよく出ていたので、実際に私の長女が不登校になったとき、ショックは少なかったと思います。学校に行けない現実を受け入れることができました」

 

長女は、5歳の時に父親を亡くし、小学5年生から学校に行きにくくなった。5年生から6年生にかけて山村留学を体験したが、そこで残っていた全てのパワーを使い切ったのかもしれない。中学1年生の2学期から再び不登校になり、中学3年生の今は、その日の体調や気分によっては登校できるという状態が続いた。

「私が心の暗闇でもがいていたときから、娘はずっと親である私のケアをしてくれていたと思います。親が頑張っているときには、子も頑張っている。そして親のグリーフ(悲嘆)が抜けたころ、子が力尽きるのだと思います」

 

学校に行けない時の長女の様子は、正に「パワー切れ」という感じだった。1日1食とれるかどうか…という弱々しい状態。しかし、レインボーハウスで何人かの保護者から「うちの子はご飯が食べられなかった」「アイスクリームしか食べられなかった」という話を聞いていたので、それほど不安には思わなかった。何より、レインボーハウスでのつながりのおかげで、久子さん自身が孤立しないで済んだことが有難かった。不安やもどかしさを仲間と共有できるだけでも、大きな助けになった。

 

「以前、娘が『お父さんいないんでしょ』と言われているのを聞いて、『大丈夫?』と尋ねたら、『もう慣れてる』と言われたことがありました。母子家庭で育った子どもが『ボッシー』と呼ばれて差別されていることも知りました。そんな心無いことを、慣れるほど言われている事実にショックを受けました。学童に通っていたころ、長女とは別の子が父親を亡くされたのですが、学童のスタッフが子ども全員を集めて『○○さんのお父さんが亡くなりました。みんな仲良くしてあげましょう』と言ったと聞きました。長女は激怒していました。意地悪を言う子がいるのを知りながら、なぜそんなことをするのか!と、憤りを口にしました。長女にとっても二次被害のようなものです。そのあたりから学童にも行かなくなりましたが、そういう日々の出来事で、子どもの心もすり減っていったのだと思います」

 

外出先で制服を着た学生を見ると、学校に行って欲しい気持ちがつのって涙が出た。しかし、頑張らせ過ぎてしまったこと、ご飯を消化する力も無いほどに疲れさせてしまったことを思い出して、その涙を拭いてきた。

「一緒に住んでいても、我が子の状態を一瞬にして気づくということはなくて、少しずつ色んな情報がつながって気付いていく感じでした。レインボーハウスのお母さんたちから得た生の情報が助けになりました」

 

長女は、高校へ進学をすることに迷いはなかった。しかし、出席日数の不足や、単位の問題などが道を阻んだ。久子さんが驚いたのは、長女が志望校の先生方に忍耐強く不登校の事情を説明して、自ら道を切り開いたことだ。先生方は、話し合いをして、長女を迎え入れると決めてくれた。この春から始まる、新しい高校生活に、久子さん親子は胸を躍らせている。

断捨離で歩み出した一歩

夫が死去して10年を迎えた昨年、久子さんに心境の変化があった。

「ずっと手元に置いてあったお骨を、海に流すことにしたのです。散骨しました。夫の生前から、ずっと同じところに住んでいたこともあって、彼の私物や、思い出の品物がギッシリある中で生活していました。お骨もそのひとつでした。娘が不登校になって、色々なことをスッキリさせなくてはいけないと思い、断捨離を決行したのです」

 

久子さんと長女は、家の物を整理して、処分することに没頭した。夫が残した品々も、夫が子どもの頃の写真なども処分した。教鞭をとる傍ら研究をしていた人だったので、多くの本や書類があったが、それも全て処分した。

「本棚に残された夫の本、一生かけても、私は読まないな…と思いました。婚姻届けに判を押した責任で、私が夫の人生のカタをつけなくてはいけないとも思いました。全部を子どもに残しても、きっと困るだろうなって」

洋服、本、小物…と整理を進めていく延長に、散骨もあった。

「10年という月日が経って、娘と2人、グリーフ(悲嘆)を乗り越えて地に足がついた生活をしなくては、と思いました。明るく生きていかなくちゃと決心できたのです」

 

家の中をスッキリとさせ、散骨を済ませると、思ってもみなかった解放感があった。執着や愛着を手放して、生活の品々をそぎ落として、すっきりとした生活を手に入れた。

「今の住まいからは山々の素晴らしい景色が見えるのですが、この夫との思い出の場所も、一旦手放そうかな…と思い始めています。太陽がサンサンと降り注ぐ、南向きの部屋を探して、引っ越したいと考えています。人が集まる我が家にしたいと思う様になりました」

 

断捨離をすることで、心も身体も自由になった。そして、自分らしさを取り戻したように感じている。長女もやがて独り立ちすることだろう。老いていく自分も意識せざるを得ない。「夫がいない生活」から、「自分が生きている生活」へ。自分を中心にした生活を考えると、ワクワクとした気分になる。未来を語る久子さんの顔は明るい。

夢は中国でお遍路

「私は巡礼が趣味なのです。四国88カ所の巡礼、秩父34カ所の巡礼、坂東33カ所の巡礼が終わって、今は西国巡礼の途中です。長女と2人で時間を見つけては、札所の寺を巡っています。将来の夢は、中国のカイラス巡礼に行くことです。カイラス山は、ネパールやインドにまたがる信仰の山で、五体投地(※)しながらゆっくり進む人もいます。そこを巡礼したいです」

 

生前、一緒に巡礼を楽しんでいた夫とは「今世が無理なら、来世一緒に行こう」と、カイラス巡礼のことを話していたが、今は、自分ひとりであっても、今世行きたいと思えるようになった。

「巡礼をしている時は、お経を読んで、毎日新たに十戒の誓いをします。ひとつの巡礼地の全ての札所を巡り終わることを結願(けちがん)と言いますが、その日が特別というのではないんです。何でもない日常の中で、心の持ち方が変わっているな、これはご利益だな、と気付くことがあります。そして、多分ですが、より仏教徒になっているのを感じます」

 

歩きたい。

この足で、1歩1歩前に進みたい。

山を。寺を。日々の暮らしの中を。次に夫に会える日まで丁寧に歩き続けたい。

 

※五体投地は両手、両膝、頭を地面に投げ伏して祈る、仏教でもっとも丁寧な礼拝の方法。

 

Mt.Fuji with husband

富士山頂で記念撮影した若かりし頃の久子さん夫妻

(インタビュー 田上菜奈)

 

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や心のケアプログラムの保護者チームの運営に携わっている。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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