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藤村修さん、内閣官房長官に就任 ~遺児と歩んで39年の人間像~

2011年09月09日 [プレスリリース]

 2011年9月2日(金)の夕刻、野田佳彦新首相は内閣の要、首相の女房役である内閣官房長官に藤村修氏の起用を決めた。藤村(以下敬称略)はわが「あしなが育英会」の副会長(長官就任前まで)であるが、「遺児と歩んで39年」に亘る最も古い同志である。


画像=読売新聞社提供「初閣議を終えて記念撮影する野田内閣。首相官邸で。2011年9月2日撮影」。前から3列目、右から2人目が藤村修官房長官


 遺児の奨学金を全国の学生と街頭で募金し、一方で「交通遺児を励ます会」をつくって遺児の子どもたちと遠足をしたりして励ました。これが全国に広がり、各地で作文集『天国にいるおとうさま』『写真だけのお父さん』『車なんてなくなってしまえ』などが刊行された。遺児救済の世論は爆発し、1968年5月、「交通遺児育英会」(初代会長・永野重雄=故人)が誕生し、遺児への奨学金貸与が始まり、励ます会の活動も育英会の大学奨学生らに受け継がれた。このように、後の“あしなが運動”は若者の正義感とやさしさの連帯で毎年引き継がれていく。
 やがて、交通遺児から災害遺児へ(遺児学生たちが活躍し、自分たちで災害遺児、病気遺児を救済する「あしなが育英会」(1993年、初代会長・武田豊。現2代会長・玉井義臣)をつくり、すべての遺児が進学できる制度がスタートした。もちろん、世界に類を見ないものである。

 1972年、わが藤村修は広島大学工学部の卒業をひかえ、世界大手のコンピューター会社に就職を決め、夏の暑い日、あいさつに玉井を訪ねた。「もっとでっかく、世のため人のためになる仕事をしようよ」と玉井に口説かれ、即日育英会入りを決める。藤村と玉井は遺児救済の仕事をしながら、ブラジルに魅せられ、遺児や一般学生をブラジルで“働きながら学ぶ”1年研修制度を始める。藤村は満30歳のとき事務局次長として“百年の計には人を植える”事業に専念。89年には社団法人 日本ブラジル交流協会を設立、98年には理事長に(会長には玉井)。玉井と共に、25年間に750人を研修させ、今、多くの俊秀が輩出している。

 1993年、藤村は日本新党から立候補し、衆議院議員に初当選(現在、当選6回)。

 さて、この約40年間に、一般に広く知られてはいないが藤村修は多くの人々と仕事をした。そこで、近くで働いていた人たちの藤村評を順次紹介していきたい。それで全体像を完全にとらえきれるとは思えないが、藤村が私を「師」と仰いでくれているというので、僭越ながら、私玉井から。

≪藤村修評≫
玉井義臣(あしなが育英会会長) 藤村は大学生時代、自動車部ではバスの免許をもち小さな遺児たちと遠足して励ました。また、遺児の作文に涙し、「交通遺児を励ます会」活動に熱心だった、やさしいタフガイ。「励ます会」で出会い結婚した妻・真弓さんは看護大教授だが共働きを続け、「夫婦は尊敬しあわないと」が口ぐせ。長男次男の2子ともバイト、バイトで早慶を卒業。子どもの自主性を尊重し、やることには干渉せず。
 私が彼を好きなのは寡黙で誠実なこと。度胸のよさを感じたのは、NYでリオ行きの予約が落ちていた時、高校生がパニックになっているのを、あわてず騒がず、うまくない英語で航空会社と交渉し、決着をつけた。
 清貧の人。最近、やっとマンションのローンを払い終わる。かつて一升瓶の安ワインを飲んでいたが、今は一晩熱燗3合でよし。カレーが大好きで、週1~2回食べる。風呂掃除も自分でやる、“主夫”もOK。
 また、かつての愛弟子は今すべて私を追い抜き「出藍の誉」となったのに、藤村の言動は全く変わらず。野田首相と藤村官房長官の“庶民コンビ”誕生。教育と財産が地位と収入を決める昨今の格差社会で、遺児の苦境を見続けている私は思わず「庶民代表ガンバって」とエールを送りたい。空前の困難社会を命懸けで乗り切ってほしい。期待しています。

紺野美沙子(女優・国連開発計画親善大使) 藤村修さんとは、20年来の家族ぐるみのお付き合いです。誠実で温厚な印象はテレビと全く変わりません。藤村夫人は大変明るくテキパキとした方で、「働く母」の大先輩としても最も頼れる存在です。女性がいい仕事を出来るのは、理解を示してくれるパートナーの存在が大きいと思いますが、藤村家も我が家もその点が共通しているのではないでしょうか。藤村さんはご家庭でもきっと、海のように深い心と忍耐力の持ち主だと思います。
 長年「あしなが育英会」に携わっている藤村さんだからこそ、「市井の人々の痛み」に寄り添うことが出来ると思います。現在の我が国の状況をふまえて、粘り強く、真摯に重責を担って下さると大いに期待しております。

下村博文(自民党シャドーキャビネット文部科学大臣、あしなが育英会副会長、大学奨学生第1期生、57歳) あしなが育英会にとって大変名誉なことですばらしい。野田内閣の官房長官として頑張ってください。私は自民党ではありますが、あしながファミリーの一員として心から最大限のエールを送ります。藤村さんの誠実な人柄で野田総理をお支えください。


藤村修長官(右から2人目)夫妻と長男夫妻・孫娘

藤村真弓(修の妻) 修より早く「励ます会」に入る。名門私立女子中高から、重度後遺症患者の施設へのボランティア活動で考えさせられ、聖路加看護大学に進路を変え、看護師一筋。全国唯一の兵庫子ども病院で働き、広島励ます会の修と結婚。元沖縄県立看護大学助教授、現茨城キリスト教大学教授・看護学部長。夫の選挙は総選挙の時しか手伝えない。真弓いわく「38年間、一度もケンカしたことがない。家庭の中で何が起こっても修さんは一度もあわてふためいたことはない。孫ができて最近は心が安らぐようだ」「野田さんを総理にするが口ぐせで、この先も女房役としてずっと仕えていくと思う」「年齢からすると激務なので、健康面での注意は私のつとめ」。※藤村は玉井の葬儀委員長、真弓夫人は看取り人になると笑いながら言うぐらい、玉井とのつき合いは長くなった。初めからブレない人だ。

山北洋二(あしなが育英会監事) 山北は少年時代からボランティア活動を行い、藤村、故山本孝史(ガンを参院本会議で告白し、ガン対策基本法を遺して逝く)、山北らボランティア出身の育英会職員第1期3人組。親の反対を押し切って育英会に入局した。山北いわく、「藤村はずっと飲み仲間だが、飲んでいて一度もハラが立った記憶がない。律儀な人だ」。

林田吉司(あしなが育英会東北事務所長) じっと人を、じっと物事を、みる人だ。部下の女性に親切丁寧に仕事を教えこまれていた姿を思い出す。

工藤長彦(あしなが育英会事務局次長・あしなが心塾塾頭) 私が今こうして“あしなが運動”を続けられるのは、藤村さんが良き兄貴として後ろ姿を見せて励ましてくれたからです。

副田義也(筑波大学名誉教授、「あしなが運動と玉井義臣」著者=岩波書店刊) 1)広島大学在学中は自動車部では主務で、大学紛争の影響もあり、交通遺児の募金や励ます会運動をした。青年時代からボランティア精神と弱者救済の志が強かった。 2)卒業後は大手コンピューター会社に入社が決まっていたが、玉井義臣はその会社は止めておけと説き、なにか大きな面白い仕事を一緒にしよう、と誘った。 3)その日のうちに決断をして、藤村は交通遺児育英会に入局した。藤村は玉井への共感があり、励ます会の仲間には故山本孝史らがおり、迷うことはなかった。育英会の業務には、つどい、機関紙、各種のキャンペーン、調査などがあり、副田は調査担当者としてその藤村に将来の大器の印象をもった。 4)1979年11月、玉井は育英会とは別に、日本ブラジル青少年交流協会を設立し、事務局は藤村事務局次長に任せ、89年9月には社団法人日本ブラジル交流協会と改組し、98年には理事長に(会長は玉井)。大学生たちをブラジル研修に送り、1年間、現地の企業で働いたり、大学に行き、生活費の補助となる給費をうけつつ、語学を学び文化交流をする研修制度をつくった。この制度のもとで若者はたくましく成長した。この制度をつくり、運用しつつ、藤村は国際協力の理想のもとその実務に通じていった。 5)藤村のライフ・コース、20代は交通遺児の救済のために、30代は日本とブラジルの若者の交流のためにはたらいた。40代、50代は政治家として教育・福祉・外交の分野ではたらき、61歳で官房長官として脚光をあびる。弱者救済、国際協力、現代政治は、藤村において三位一体である。

篠田伸二(日本ブラジル交流協会第3期留学生、TBSテレビ勤務) 「一年の計は穀を植えよ。百年の計は人を植えよ。」
 日本ブラジル交流協会は、そんなスローガンの下、四半世紀にわたって日本の若者をブラジル各地に研修生として送り込んだ民間の留学制度です。750人の若者たちは今、国内外でさまざまな分野で活躍しています。その制度を一から創り、育てたのが藤村修さん。日本国内はもちろんのこと、ブラジル最北のアマゾンから南のアルゼンチン、パラグアイとの国境まで、制度の理解と協力を得るために、くまなく足を運び(30数回)、現地の人々と丁寧にコミュニケーションをとる。その決して裏切らない誠実な仕事ぶりと実直なお人柄は、信頼感抜群でした。BRICsの一角を担う躍進のブラジルにおいて、いま最も信頼に足る日本の政治家が藤村修さんであり、実際に彼のファンも多い。
 国民の期待は、民主党が政権を勝ち得た時のような一体感を再び取り戻し、この国難に立ち向かうことです。国家を中枢で支える大任に就かれても、決してブレることなく、刎頸(ふんけい)の友といわれる野田首相を支え、各所の利害を調整し、難題解決へ向けて、ひとつずつ着実に前進させる。それが藤村さんの流儀でありましょう。健康に留意されつつ、ご活躍を心から期待しています。

副田護(編集者) 藤村を表現するに『漢』の字を当てたい。三国志の時代に生きた、多くの男たちのように、乱世にいて「治」を忘れず、「義」を果たす、文字通りの『好漢』が藤村修である。

山崎一夫(高校時代の友人、ジャーナリスト) 大阪の千里ニュータウン近くで大きくなった。珍しく都会人出身の議員で、利権に動かない人種。裏方、調整役に向く。演説は奥さんの方がうまいが、藤村は料理が上手い。

清原瑞彦(スウェーデン国立博物館客員教授) 藤村修さんとはもう40年近くのおつきあいになる。初めてお会いした時、藤村さんはある団体に勤務されていたが、話を伺うと今で言うところのボランティアで、当時としては時代を先取りしていたのだと思うが、理想への熱意がなければこれはとても務まらない。
 私は長らくスウェーデンに暮らし、帰国後も北欧を行ったり来たりの生活をしていたので、福祉の行き届いたスウェーデンや北欧のことがどうなっているのかと藤村さんはよく熱心に聞かれた。そのうちに教育、社会について大変詳細に聞いてくるので、辟易することもあったが、その熱心さは並みではなかった。相当研究していると見えて、日本との比較を鋭く指摘し、時には夜を徹して議論することもあった。ブラジル関係の団体役員をされていたので、海外に対する視野が広いと感じた。後に外務副大臣の要職に就かれた時、当然だと思った。まじめさと熱意は人一倍で誰もが保証するところだ。それに付け加えて責任感が大変強いと交流していて感じる。これらの頼もしい面を生かして是非国民のために頑張ってほしい。

小河光治(あしなが育英会理事、大学奨学生12期) 藤村さんが日本ブラジル交流協会事務局長をされていたときに、私たち750人の日本の学生たちをブラジルに1年間の研修をさせ、「世のため、人のため人類社会で貢献する人材づくり」のために日本とブラジルの架け橋となって活躍されていました。また、議員に出馬される直前まで、あしなが育英会の顧問として、いっしょの事務所でお世話になっていました。夏には遺児たちのキャンプに参加され、レクリェーションの指導などもしていただいておりました。議員になられてからは、一貫して文教畑。遺児など社会的に弱い立場に立たされている人々のために厚生労働部門でも活動されました。毎年春秋の街頭募金「あしなが学生募金」では、いつも大阪で西川きよしさんや遺児の学生とともに募金の呼びかけをしていただいています。遺児たちにとっては、心優しく頼もしい「大阪のお父さん」のような存在だと思います。

岡崎祐吉(あしなが育英会国際担当理事、大学奨学生15期) ウガンダ共和国から初めてエイズ遺児が来日したとき、一番先に会いに来てくださり、一番小さな遺児の目線に合わせてしゃがみこみ、涙でくしゃくしゃな顔で「岡崎、ご苦労様」。藤村先生のやさしさに触れた。
 玉井会長と共に25年間で750人の日本の若者をブラジルに送り、世界で活躍する素晴らしい人材を育成されたその偉大なる事業と、フロンティア精神をアフリカ遺児の教育支援運動へと受け継いでいきたい。

金木正夫(あしなが育英会会長代行、大学奨学生6期、ハーバード大学医学部准教授) 藤村修さん、極めて重要で本当に大変なお仕事を引き受けられたことにあらためて敬意を表したいと思います。目立たない所でみんなのために「縁の下の力持 ち」 として着実に仕事を進める誠実さと、バランスのとれた政策的判断を兼ね合わせている点で抜きん出ている藤村さんを日本の社会が必要としているのだと思いま す。今日のグローバル経済の下で、アメリカやヨーロッパ諸国など先進国においては、財政赤字、失業と格差の拡大、国際競争力低下の三つを同時に解決する政策を国民国家の枠組みの中で見いだすことが難しく、「欧米の日本化」とも評されています。ブラジルとの交流に多大な貢献をされてきた藤村さんに、新しい国際協調を目指す新たな外交へ向けた展 開を期待したいと思います。


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