保護者インタビューまなざし#36 寂しい時は、夜空を見上げて
りえさん (40代 新潟県)
結婚して10か月後、長女が生まれて2か月も経たぬ間に、夫は他界してしまった。25歳で遺族となることを、一体誰が想像できただろう。全てをかけて子どもを育てあげたひとりの母親物語をお聞きした。
最高の夫との出会い
夫とは、職場で出会った。働き始めてすぐの頃から夫に惹かれ、結婚するのは当然の流れのように感じた。友人からも職場の仲間からも評判が良く、人気者でムードメーカー。仕事ができて、顔立ちが良くて、ノリもよく一緒にいて楽しい、完璧な人だった。
「私より9歳年上でした。彼のことを悪く言う人には会ったことがないと言ってもいいくらい、本当に良い人でした」
結婚式の日取りが決まり、招待状が友人・親戚の手元に届いたころ、突然夫が病に倒れた。脳腫瘍だった。手術をすれば治るとの診断だったので、手術をし、結婚式は延期した。夫は33歳。りえさんは24歳。ともに若く、「死」とは無縁と思われた。
「家族は私たちの結婚にはもちろん賛成していましたが、彼が大きな病気を患ったことから、術後3年は様子を見なさいと言われました。結婚は3年待てと。親心だったのだと思いますが、私たちはどうしても結婚したくて、結婚式を予定していた日から1か月後に入籍しました。ふたりとも若くて、病気を深刻に考えられなかったのかもしれません」
新婚生活が始まり、夫も職場に復帰することができた。そして、りえさんのお腹には新しい命が宿った。今から思えば、本当に短い、平穏で幸せな時間だった。
手術から半年も経たずして、夫の病気は再発した。2度目の手術を受けたが、医師からは、「取り除けない腫瘍があるので、緩和ケアに切り替える」と、伝えられた。
車椅子での生活になるかもしれない…。りえさんは、アパートを引き払い、車椅子で暮らせるよう夫の実家を改築した。妊娠後期ということもあり、心身の安全を考えて、りえさんは出産までの日々を自分の実家で暮らすことにした。術後、夫がとても衰弱していると感じていた。
この子がいたから頑張れた
翌年の春に長女が誕生した。りえさん夫妻にとっても、家族にとっても、赤ん坊の誕生は希望の光そのものだった。両家の親たちが心から喜んでくれたのが、りえさんには嬉しかった。祖父母も、毎日、赤ん坊の沐浴をしてくれた。誰もが赤ん坊の存在に救われ、癒された。
「名前を考えているときに、小さくてかわいいこの子を『ちーちゃん』と呼びたくて、『ち』が付く名前を考えました。病床の夫も『いいねぇ』と言ってくれました。何とか、彼の腕に赤ちゃんを抱かせることもできました。力が入らなくて、落としてしまいそうで…でも、一生懸命抱っこしてくれました」

長女が生まれて2か月も経たぬうちに、夫は他界した。
りえさんは、生まれたばかりの長女とふたり、この世に取り残されたような、それまでに感じたことのない大きな喪失感にさいなまれた。
「葬式から半年間くらいの記憶が、私には全然無いのです。無意識のうちに忘れようとしているのかもしれませんが、ぽっかりと抜け落ちてしまって、何も思い出せません。だから、小さなわが子の記憶もないのです。初めてつかまり立ちした、初めてママと呼んだ…といった記憶もありません。気が付いたら、ずいぶん大きくなっていた感じです」
長女が保育園を利用できる月齢になると、りえさんはすぐに長女を保育園に預けて、就職先を探した。
「この子を何とかしなくては、何とか育てなくては、という思いで動き出しました。娘がいたから頑張れたと思います。この子のために生きなきゃ、この子が家庭を持つまでは、私が元気でいなきゃ…と考えるのは、今も変わらないですね」
10年間は、ママ友も作れず
りえさんが夫を亡くしたのは25歳の時。再婚を勧める人もいた。
「でも、夫があまりにもいい人すぎて、再婚に意識を切り替えることができませんでした。夫以上の人が考えられなかったのです。それでも、外出先や保育園などで父親に抱っこされたり、肩車されたりしている子どもを見ると、うらやましいなぁという思いが湧いてきて、つらかったです。同年代のママ友と話をしても、夫の話や、家族そろって出かけた話ばかり。だから、ママ友の集まりは、なるべく避けるようになりました」
特に、ママ友たちが語る、夫の悪口や愚痴を聞くのは、耐え難かった。冗談めかしてでも、夫への不満を口にしている場面に居合わせると、なぜかりえさんが傷つき、気がめいった。そんな理由から、保育園の送り迎えはもっぱら父母に頼って、ママ友たちとも距離を置くようになった。
「小さな娘は、無邪気に『弟や妹が欲しい』と言ったり、『だれだれちゃんのパパみたいなパパがいいな』と言ったりしました。そういう言葉を聞くと、この子のために誰かと再婚して、父親になってもらった方がいいのかな?と思うこともありましたけれど、やはりあれこれ考えてしまうと、踏み出すことができませんでした」
りえさんは、長女が寂しい思いをしないように、父親がいないことで卑屈にならないように、意識して育ててきた。欲しがる物や、習い事は、なるべく我慢させないように与えてきたつもりだ。その一方で、父親だったら怒るだろうという場面では、夫に代わって怒ることもあった。優しいばかりの母親ではなかったと思う。
幸いなことに、父母、祖父母と、全員が長女のことを心から愛し、かわいがってくれた。長女が皆の生きがいであることは、間違いなかった。
特に母は、まだ若いりえさんを労わって、
「子どもは見ているから、遊びに行きなさい。外に出て遊びなさい」
と、背中を押してくれた。スノーボードやウェイクボードなど、時間を忘れて思い切り屋外で身体を動かす機会を与えてくれた。後から振り返ると、そのことがどれほどりえさんの心を軽くしてくれたか分からない。娘のために、少しでも条件がいいところへと、転職を繰り返しながらがんばってこられたのも、今の職場で正社員になれたのも、このような家族のサポートがあったから、と心から感謝している。
子どもを信じて手放す
「娘は、私を前向きでポジティブな人というかもしれません。でも、実際には、なかなか泣けなかったのです。がんばらなきゃ、私がしっかりしなきゃと思って、弱音が吐けずにいました。その一方で、当事者にしか分からない、繊細な気持ちも抱えていました。誰かが冗談でも『あんなやつ死ねばいいのに』などと言っているのを聞くと、ものすごく胸が痛みます。「死」という言葉を軽々しく口にすることなどできなくなりました。人づてに誰々さんが亡くなった、と聞いたり、それほど親しくない方であっても、葬儀の場面に出くわしたりすると、感情移入して泣いてしまうことがあります。『死』に関しては、誰よりも敏感だと思います」
普段は明るく屈託のないりえさんだが、夫の死はその人生にずっと影響を与え続けている。
長女が赤ん坊のころから、夜の空を見上げては、一番明るく輝く星を探して、『あれがパパよ。空から見守ってくれているのよ』と、語ってきた。
長女が5歳くらいのある時期、夫を思い出すと、恋しくて恋しくて、会いたくて仕方ない時があった。東北に有名なイタコ*の方がいる、「亡き人と話ができる」と聞いて、りえさんは出かけて行ったことがある。信じる信じないということより、わらをもすがる思いから、夫と話ができるなら、何でも試してみたいと思った。
(*イタコ:東北地方、主に青森県に伝わる、口寄せ巫女・霊能者のこと。死者や霊と交信して、その言葉を生者に伝える役割を担う)
「名前と生年月日だけ告げて、そのほかは何も聞かれませんでしたが、夫がイタコさんのところへ降りてきたとき、開口一番、『いつも空を見てくれているね。空に向かってごあいさつしてくれてありがとう』と言ったのです。すごい、通じているんだ!本当なんだ!と思いました(笑)。夫は、『いい人ができたら、そっちへ行ってもいいんだよ、幸せになっていいんだよ』とも言ってくれました」
夫と出会ってから別れるまでの時間は、ほんの4、5年間。嫌なところがひとつもなくて、どんなわがままも許してくれる人だった。普通に生きていてくれたら、ふたりで味わえた幸せが、もっともっとあったのだろう。
「でもね、思うんですよ。夫は、私を長女と出会わせてくれました。彼の存在なしに、長女と出会うことはできなかった。それを思うと、心の底から本当にありがとう、って思えるんです」
現在、長女は大学4年生になった。あしなが育英会の海外研修制度を利用して1年間の海外生活も体験した。りえさんが目を見張るほど、活発で、行動的で、好奇心旺盛な女性に成長した。
「大学進学のために、長女が上京したときは、身体の一部をもぎ取られたような喪失感で、本当に自分ひとりでやっていけるのかな、と思いました。でも、可愛い子だからこそ、喜んで送り出さなくてはいけないと分かっていました。子の成長なのですから、悩んだり、くよくよしたりするのは、ちがいますものね」
りえさんには、新しい夢ができた。それは、長女と一緒に海外を旅することだ。
「思い返せば、昔から、娘が英語を話せるようになったら、一緒に海外に行きたいね、と話をしていました。ちょっと前の話になりますが、娘と一緒に街を歩いていたとき、道に迷っている海外からの観光客を見つけた彼女が、歩み寄って話しかけているのを見ました。私には分からない言語をスラスラと話しながら、笑っている娘がとてもまぶしかったです」
夢見ていたいつかが、もう、いつでも叶えられるほど、長女は成長していた。
その様子を、夫は空から見て微笑んでいるのかもしれない。

(インタビュー 田上菜奈)
※本記事の画像はすべてイメージです。



