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非公開: 「レインボーハウスに寄せられた遺児体験談の掲載」

はじめに

レインボーハウスでは2017年、遺児の作文と成長記録「こころに虹がかかるまで」小冊子を発刊しました。
その中で、遺児体験を募集し下記の方々より、体験談を寄せていただきました。下記のとおり、掲載させえいただきます。
(内容を変えず原稿を短くしております。ご了承ください)

50歳代、女性

私は5年前に、父をテニス中の転倒による脳挫傷、母を若年性アルツハイマー病で亡くし、20年前に兄が交通事故で他界しました。母が患ったアルツハイマー病の原因は分かりませんが、兄の死後数年後に症状が出ている為、兄の死が大きなストレスとなり病に影響したのではと思えます。母の病状が進み、そろそろ覚悟しないと、と父と話していた矢先に父が倒れ、父の入院先と母の住まう特養へ行き来する日々が始まりました。

母の逝去後実家に戻り、庭の草取り中に母が植えたと思われる草花に出会うと「ああ、お母さんが植えた花ね。お母さん大事にしますね」と声を出してしまいます。

母の日、父の日のプレゼント企画を掲載した華やかな広告を目にするともう何もできない寂しさを感じます。でも思い出は心に残っているので何気ない日常の両親の姿はありありと思い描かれ、多くを教え、育ててくれたこと、どれだけの愛情を注いでくれたかと改めて感謝しております。



80歳代、女性

明治29年生まれの父は、今では国交のない国で警察官をして居りました。7つ違いの母は、三男二女を授かっていました。

両親を亡くし昔のことを尋ねたくても4つ上の兄はもう忘れたと言います。九歳の時終戦を迎え、私は母の里に預けられました。

成人し、結婚、出産。あるとき娘が雑談の途中に、「私を産んでくれてありがとう」と言ってくれ、私は両親にそのようなことを言ったことがありませんでした。なのでかわりに、両親のお墓に向かって「ありがとう」と言います。



75歳代、女性

一生貧しさの中で暮らした両親は、今天国でやっと心安らかな日を送っていることでしょう。極貧の中で、父母は一生懸命兄と私の二人の子育てに我が身を削っていました。

あの戦後の日本中が貧しかったころ、家族を飢えから守るのは大変だったと思う。

やせっぽっちで自信のない私を貧しい中何とか商業高校へ進学させてくれた両親のおかげで経理事務員として65歳まで働き、今は幸せな老後を送っています。



20歳代、女性

私には両親が居ません。だから母の日も父の日も憂鬱です。それに私の母は、母の日の夜に亡くなりました。だから5月は命日と母の日、どちらもアンニュイです。

そのころの母は精神的に余裕がなくて、よく小さなことで怒って祖母に八つ当たりをしていました。母の代わりに家事を手伝いに来てくれていたのですが、祖母は何で怒りだすかわからない母やその暴力・物を投げられることにビクビクしていました。だから私がその日、ママの様子が変だから今日は泊まってと言っても、祖母は帰ってしまいました。

中々寝ない母が気になって、私は寝付けませんでした。夜中に目が覚めて。ちょうど夜10時、なぜか窓辺に立っていた母に「ママ、何してるの?」と声を掛けたかったのに、睡魔に襲われて再び眠ってしまいました。

次に起きたのは2時間後。それなのに2時間前に見た時と同じように窓辺に立つ母。カーテンを開けて、私は母が首を吊って自殺しているのを見つけたのです。「やっぱりね!こんなことだろうと思った!」私は憤慨しながら、ロープを切る為のハサミを探しに行きました。自分が何に怒っていたのか、今でもよくわかりません。ただ私はまだ8歳で、119番も知らなかった。母の体を吊り上げているロープを机に登って切るくらいしか出来なかった。

何もできずに、祖母に電話した後の時間を座って待っていたのです。母の日までに作ろうと思っていた折り紙と割りばしのカーネーション、結局作れなかったな。母の日なのに何もなかったからすねたのかな。もう渡せないのか。今年からは看護師として働いています。あの時の「なにもできなかった」悔しさを2度と感じたくないので、自己研鑽に励んでいます。



80歳代、女性

私は二歳八か月で生母と死別しましたのでその面影は覚えていませんが、遺影を見ると同年齢の頃にはやはり似ているところがあると思いました。兄が二人いて第三子なので。三に母の「千代子」から二字を受け継いで「三千代」と名付けられたそうです。母といつも一緒にいるようで自分の名前を気に入っています。

やがて父は再婚することになり、私が三歳二か月の時に親戚のお世話で子供のいない親戚の養女になりました。初めて養母が会いに来たときのことは、今でも鮮明に覚えています。

好きなままごとのお客様になって遊んでくれたその人にすっかりなついて、そのままおもちゃを持って一緒についていきました。

段々日が暮れて実家が恋しくなり、私はしくしく泣きだし「おうちにかえりたい」と言っていたそうです。養母が74歳で亡くなってから養父が話してくれました。

養父は船乗りで、88歳で天寿を全うしました。病弱な妻との間に血を分けた子供がいないことを最後まで残念がっていました。夫は去年亡くなりましたが、今、晩年を穏やかに過ごせるのは、生父母や養父のおかげでもあると、ありがたく深く感謝しております。



30歳代、女性

先日ふと、父と共に生きていた歳月と、父が亡くなってからの歳月が同じになることに、淋しさなのか安堵なのか何とも言えない気持ちに陥る瞬間があった。父が自ら命を絶って13年。私自身ももう「遺児」とは呼べない歳になった。

家族思いで負けず嫌い、GWには自分が盲腸になっているのを我慢して私たちと遊び、最終日に緊急入院するほどの強い父。そんな父の後ろをずっと歩き、父以外の人は絶対に一生みつからないと今でもぼやく母。「子供の貧困」の報道を見るたびに、子どもの頃の私たちは、まさにその最中にいたんだと感じずにはいられないほどの環境にいながらも、父も母も一生懸命に生き、あふれるほどの愛で、一生懸命に私たちを育ててくれた。

父が亡くなった後、母は「自分も一緒に死にたい」と自殺未遂を繰り返した。まだ高校生だった私は、そんな母に「無責任だ。母親失格」だとののしった覚えがある。あの時は自分の身に何が起きたのか理解できず、大好きだった父親が死んだ上、母親まで失ってしまうことへの恐怖をぶつける場所がなく、母の気持ちなんて考える余裕もないまま、怒りの言葉をストレートにぶつけていた。

世間がはやし立てるような「母の日」「父の日」は私の家には存在しない。「生きていてくれてありがとう」その気持ちを、母の誕生日、自分たちの誕生日、結婚記念日、そして父の命日に伝えることを大切にしている

父が生きられなかった現在、母と共に生きる現在、これからも自分の人生を全うしていきたいと思う。



20歳代、女性

私の母は、48歳で亡くなりました。最初は細菌感染から始まり、極端に抵抗力が低下した体では細菌に打ち勝てず、多臓器不全になったことが原因でした。ある日突然、家の中で動けなくなり、救急車で運ばれて入院した後、たった2週間で天国へ行ってしまいました。 

母の日になると思い出すのは入院する日に母が作ってくれていたお弁当。その日は手作りのものは一つもなく、得意の卵焼きですら、スーパーで買った既製品でした。このお弁当を作るのもつらかっただろうと思いながらも、母に頼っている自分の甘さに嫌気がさし、悔しくて申し訳なく恥ずかしくて、病室で泣きながら食べたのを今でも覚えています。

その時は母の注いでくれた愛情を素直に受け取ることができませんでした。愛情はどこから来るのかという疑問の答えを求めて、助産師を目指しました。助産師の資格を取得後、産科で働く中で、「家族の愛情にも様々な形があること」、「最初から”親”である人はひとりもいなくて、みんな少しずつ”親“になっていくこと」、「愛情は、親以外からも注いだり、注がれたりすることができること」を知りました。

そして初めて、母の良いところも悪いところもある、一人の人間であることに気づきました。おそらく、私は母に「完璧な人であること」を求めていたのだと思います。一人の人として母を認められた時に、やっと母の愛情を受け入れることができました。


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