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保護者インタビュー「子どもたちがいたから、生き続けられた」

保護者インタビューまなざし#37 

かおりさん(50代 宮城県)

東日本大震災の津波で最愛の夫を亡くし、4人の子どもと生きることになったかおりさん。当時2歳、6歳、8歳、10歳だった子どもたちと孤軍奮闘の毎日が続き、不安のあまり「いっそ、みんなであちらの世界に行った方がいいのでは…」という思いが頭をかすめたこともあった。震災から15年経った今の心境をお話いただいた。

「すぐ帰るから」と言った夫が帰らなかった

2011年3月11日、東日本大震災が起きた時、海から離れた地域にあるかおりさんのアパートも激しく揺れた。かおりさんは、2歳になる赤ん坊とふたりきりで自宅の室内にいた。あまりにも揺れが激しいので「アパートが倒壊するのではないか」と感じ、赤ん坊を抱いて外に出たのだが、その際に転倒して足を痛めてしまった。小学校と幼稚園にいる3人の子どもたちの安否が心配だが、足が痛くて歩くこともままならない。赤ん坊を抱いたまま身動きがとれない状態に陥った。

 

「地震の後すぐに、職場にいた夫から電話があって、『大丈夫か』と聞かれました。『大丈夫だ』って伝えると『すぐ帰るから』と言ってくれて、ホッとしました。帰ってくるまで、何とか乗り切ろうという気持ちでした」

 

動けないかおりさんの代わりに、近所に住む親せきと知人が子どもたちを連れて帰ってきてくれた。しかし、夫は夜になっても帰ってこなかった。

 

「4人の子どもたちを連れてひとりで避難所に行くことが難しくて、その晩は家にいました。それでも、余震があると建物が倒壊しそうで怖くて、子どもたちを連れて車に入ったり、でも軽自動車は狭いからと、また家に戻ったりしながら、夜を明かしました」

 

停電のためテレビをつけることはできなかったが、ゲーム機でテレビが見られることに気付き、初めて大震災のニュースを知った。画面に映る津波の映像はにわかに信じがたく、「これは日本のこと?」と、疑った。自宅は内陸地にあるが、夫の職場は海の近くだ。戻ってこない夫のことを考えると怖かった。

 

「次の朝、近くに住む夫の同僚が訪ねてきました。夫は毎朝、その人の車で一緒に出勤していたので、最初は夫も一緒に帰ってきたと思いました。でも、話を聞くと、夫とは会社の前で別れたきりで、その時、彼は社用車で避難しようとしていた、とのことでした。その人は、パートの女性たちを車に乗せて会社を出た瞬間に真っ黒な津波にのまれたそうです。車の中にいてもどちらが上か下か分からないくらい水が真っ黒で、本当に小さな車窓から身をよじるようにして外に逃げて、何とか一人だけ生き延びたと話してくれました。その時に、夫は津波にのまれたんだなって理解しました」

「パパも防水だったらよかったね」

震災の夜以来、2歳の末っ子は嘔吐下痢を繰り返していた。夜泣きもひどかった。突然の大地震と夫の死。寒さ、怖さ、不安。4人の子どもたちも体調不良が続くなどして、混乱の中、かおりさんは疲労困憊していた。

3月末になって、夫の遺体が見つかったと警察から連絡があった。車に乗り込む前に津波にのまれたらしいことがわかった。

 

「その場所に行ってみると、夫のバッグが立てかけられていました。中を見ると、持って行ったお弁当箱や眼鏡ケースが、津波の衝撃で粉々になっていました。財布は無くなっていましたが、それも数か月後に戻ってきて、免許証から夫のものとわかりました。現金は無くなっていました。夫が身に着けていた時計と、真っ黒い画面のスマートフォンも戻ってきました。津波にのまれても壊れなかった防水の時計をみて、6歳の子が、『パパも防水だったらよかったね』って言っていました」

 

この頃は、掃除も洗濯もしたくなかった。心ここにあらずの状態が続き、自分でも尋常ではないとわかってはいたが、独り言をつぶやいたり、上を向いて夫に話しかけたりしていた。気づくと、冷蔵庫にテレビのリモコンが入っていたこともある。テレビの画面で、被災者が語っていた「明日がみえない」という言葉に共感した。

 

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震災前。長男が幼かったころ

49日にみた夢「子どもたちをよろしく」

「夫が亡くなって49日目の朝は、泣いて目が覚めました。夢の中で夫が『子どもたちをよろしく』と言ったのを覚えています。夫が天に昇っていったのがわかったから、泣きながら目覚めたのだと思います」


夫は、かおりさんや子どもたちの夢にたびたび現れてくれた。それが嬉しかった。住んでいたアパートの取壊しが決まり、新しい住居に引っ越した後、子どもが「お父さんの夢をみた」と話してくれた。

「お父さんがね、新しい家を見に来て『入ってもいいか』って言ってたよ。遠慮してたみたい。いいよ、って言ったら喜んで入ってきて、みんなで一緒にカレーを食べたよ」

 

末の子は震災の翌月で3歳になったが、相変わらず夜泣きがひどかった。ある日、夫が夢に現れたのに、おもちゃを買ってもらえなかったと言って、起きてからも泣いていた。

 

「仲のいい友人の夢にも出てきて、『悪いと思う時でも謝ったことないんだけど…ひとりにしてごめんな、って(かおりに)伝えてと、言っていたよ』と、伝えにきてくれました。本当に、そういうことを口にする人ではなかったので、きっと本人の言葉だろうと思えました。『津波にのまれたとき、頭を打って意識が無かったから、津波にのまれても苦しくなかった』と言っていたことも教えてくれました。確かに、見つかった時の夫の顔は綺麗で穏やかでした」

 

たとえ夢であっても、夫と会話ができたり、存在を近くに感じたりできることが嬉しかった。実のところ、かおりさんは一人で子どもたちを育てていくのが不安で、夫の後を追うことを考えた時期があった。

 

「東日本大震災で被災した親子が心中をした、というニュースが何度か報じられていました。『心中しようか』という考えは、私の心にもくすぶっていたと思います。ひとりでは育てられないかも。どうしよう…。そういう気持ちが強かったです。だから、たとえ夢でも『子どもたちをよろしく』『ひとりにしてごめんな』と、夫に言ってもらえたことで、夫のためにも、この子たちを育てていかなくては、と思うことができました」

 

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夫はよく小説や漫画を読んでいた

「子どもたちがいたからこそ生きてこられた」

ワンオペで4人の子を育てるのは、並大抵の仕事ではない。家事の他にも、幼稚園、小学校、中学校の役員が持ち回りでやってくる。住まいは内陸地で震災の被害が少ない場所だったので、周りの人たちの生活は、震災前とあまり変わらないように思えた。

 

小学生の子どもたちが通っていた「スポーツ少年団」では、練習日の送り迎えに加えて、遠征試合の送迎や会計など、「親の会」が担う仕事が多くあった。町内会主催の子ども会もあり、それが4人分となると、家事や仕事以外にも相当な時間を取られてしまう。

 

「震災の翌年には就職しましたから、本当にオーバーワークで、過労とストレスから感音性難聴になりました。寝ていてもぐるぐると目が回るのです。目を閉じても気持ちが悪くて眠ることができませんでした」

 

その後も様々な身体の不調が現れた。かおりさんは、仕事と子どもたちのこと以外は、趣味も自分の時間も、全て手放すことにした。家事もなるべくシンプルになるよう務めた。衣類乾燥機や、出来合いの惣菜なども駆使して、少しでも効率よく生活できるようにと工夫をこらした。夫の物も、意を決して断捨離した。心身ともにギリギリの状態ではあった。


「でも、子どもたちがいて大変だったのは事実だけれども、子どもたちがいたからこそ生きてこられたって、心から思います」

 

familypicture

末の子が5歳の時に描いた家族の絵には、夫も描かれていた

レインボーハウスとの出会い

震災から3年後、東日本大震災遺児支援のためのレインボーハウスが建設された。

 

「子どもたちが夫と見た『ポケモン』の映画を、レインボーハウスで上映すると聞いて訪れたのが最初です。相談できる場所、愚痴を言える場所があったのは、本当に良かったです。支援や教育に関する新しい情報が共有されたのも、助けになりました」

 

ワンデイプログラムなど、多様なイベントが開かれた。参加している他の人たちも、皆、震災による喪失経験を経て集まった人たちだとわかった。ここでは素の自分でいいんだと感じられると、気が楽になった。

「大変な状態なのは自分ひとりじゃないと知れたこと、みんなも頑張っているんだと感じられたことはすごく大事でした。みなさんの話を聞いて、共感していたと思います」

 

レインボーハウスに通うようになると、かおりさんは自身に変化を感じるようになった。
「自分の体験を、隠すことなく正直に話せるようになりました。子どもたちも、仲のいい友人には自分の気持ちを話せているようで、『話せる環境』があることは、とても大切だと感じています。話すと気持ちが楽になれます」

また、レインボーハウスの活動を支えてくれている「あしながさん」の存在も、力になったという。
「あしながさんには、『たくさんのご支援をありがとうございます』と、心からお伝えしたいです。子どもたちが成長するなか、折々であしなが育英会の支援を利用できたのは幸運でした。それぞれの子が必要とする時期に、奨学金や体験機会を用意してあげられた幸せをかみしめています」

夫の話を子に伝えつつ、夫の物は処分する

「夫は、一言でいうと愛情深い人でした。子どもたちにとってはいい父親だったと思います。好きなポイントは頼りがいがあるところでしたかね。死別したときにまだ小さかった子どもたちには、そんな人物像を伝えています。若いころはゲームや釣りやバイクが好きで、小説や漫画などの本も好きな人でした。子どもを背負って小説を読んでいた時、『オレ、二宮金次郎』って冗談を言って笑っていたのを覚えています。子どもを相棒に、よく夜遅くまでゲームをして、私から怒られていましたよ!」

 

夫の釣り道具もすっかり錆びてしまい、一旦捨てよう、と決意した。
「思い出は子どもと共有すればいい、物は処分して、身軽になろう、って思ったんです。それに、子どもたちはお父さんのものを捨てられないんじゃないかなって。私が処分しなければいつまでも残ることになりますから」

 

4人の子どもたちは、それぞれ、17歳、21歳、23歳、25歳になった。子育ても、もう少しで終わりを迎える。

 

「これからは、仕事を増やしたり、新しいことを勉強したり、自分のために時間を使いたいです。これからやりたいことは…自分と同じように疲れたお母さんたちを癒す仕事。マッサージや鍼灸師かもしれないし、占い師かもしれないです。自分に合った何かを勉強したいです」

 

今もし、夫が目の前に現れたらどんな話をしたいか聞いてみた。
「『子どもたち、これで良かったかな?』って聞きたいです。15年間、4人の子どもたちの方向性を一緒になって考えてくれる人が、ずっと欲しかったですから。逆に、『何か言うことないの?私に?』って聞きたいかも!」

 

今、かおりさんの笑顔は、見ている人が癒されるほど明るく、美しく輝いている。

 

youngcouple

若かりし頃のふたり

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「保護者相談室」に所属。保護者からの相談の受付や保護者向け講演会の開催などに携わる。「保護者インタビューまなざし」をはじめ、いくつかのインタビュー記事を執筆している。

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