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保護者インタビュー 精力善用、自他共栄、柔らの心

保護者インタビュー まなざし#18

佐々木あづささん(40代 千葉県)

 

柔道を通して知り合った夫とは、相思相愛で仲が良かった。その夫が、11年前に突然の他界。障がいをもつ2人の子どもとの生活が始まり、体力的にも厳しい日々が続いた。あづささんは、様々な支援を利用しながら、懸命に子どもたちを育ててきた。その苦労と、支援を受けてきた経験を、同じような境遇の人のために役立てたいと、一念発起して行政書士となった。「もう一度、同じ人生を望むかと言われたら、はっきり『望みます』と言います。強く言えます」と言い切る。どこまでも優しく、明るく、笑顔を絶やさないあづささんの強さはどこからくるのだろう?障がい者家庭の当事者であり、支援者でもある佐々木あづささんにお話をうかがった。

柔道家の夫

夫は、大学の柔道部の先輩だった。身長は180センチ、体重は115キロを超える大柄の重量級選手だった。背中が広く、がっしりとしたラガーマンのような体形を持つ、屈強な人だった。オートバイが趣味で、食べることが大好きで、気さくで陽気なキャラクターは、誰からも愛された。

「目上からは可愛がられ、年下からは慕ってもらえる、コミュニケーション上手な、憎めない性格とでもいいましょうか。明るい人でした。私とは身長差が30センチほどもありましたけれど、一緒にいると、よく兄妹と間違えられました。柔道家同士、雰囲気が似ていたのでしょうかね」

夫は、身体を使うアクティブ派、あづささんは読書を好むインドア派。2人はお互いを尊重し合う、仲良し夫婦だった。

 

11年目の結婚記念日に、夫が入院することになった。

健康体であったが、マロリーワイス症候群という食道の病状があったため、入院して、外科的治療を受けることになったのだ。普通ならば、命に係わるような症状ではなかった。

「その日も、夫は、とりたてて体調が悪いということはなかったようです。普段通りに朝食を取って、ベッドに横になって目を閉じて、ウトウトして。いつもの感じで過ごしていました。でも、眠っている間に、突然、亡くなってしまったのです。眠ったまま、苦しんだ様子もなく、突然、帰らぬ人となりました。本人も、死んでしまったことに気づかなかったのではないかと思うくらいです」

享年37歳。あづささんも、医師も、誰も予期しなかった、突然の別れだった。長男が8歳、長女が6歳の時だった。

佐々木夫妻

最愛の夫と

障がい児を育てるということ

あづささんは、35歳で寡婦となり、子どもふたりの命を、ひとりで預かることになった。長男は、生まれつきの重度障がいがある。長女は、軽度の発達障がいと診断されている。

「長男は、重度胎児仮死という状態で生まれてきました。そのような状態で生まれる子は、全体の0.2~0.3%程度と聞きました。小さな確率の中に入ってしまった訳です。医師から『数日は生きられるか』『1週間もつかどうか』『1か月は難しい』『小学生になれることは期待しないほうがいい』『かろうじて10歳まで生きていた例はあります』といった具合に、常に命の危険を告げられながらやってきました。心停止を起こしたことも、危ない状態になったことも、何度もあります」

それでも長男は懸命に生き、あづささんも懸命にケアをし、今日まで命をつないできた。この春、長男は特別支援学校高等部を卒業するまでに成長した。

 

「10歳の時に、1時間にも及ぶ心停止があり、自宅では介護が出来ないくらい障がいの程度が重くなりましたが、その危機も1年かけて乗り越えてくれました。それ以降、彼は病院の生活を続けています。まさか、高校に進学して、それも卒業して、よもや18歳成人を迎えられるなんて、誰も想像していませんでした。嬉しい『まさか』です」

長男が生まれた時、夫とは「最後までしっかり見送るのが、親の務めだね」と話し合った。夫は先に逝ってしまったが、いつかやってくるであろう、息子との別れを思うとき、「次は夫にバトンタッチできる」と考えることで、安心することができる。

 

長女には、軽度の発達障がいがある。障がいというひとくくりの中にあっても、内情は全く違うと感じている。

「娘とは、普段はすごく仲がいいんです。べたべたと甘えてきます。でも、人混みの中などでパニック発作を起こすことがあり、暴れて手に負えなくなることもあります。警察官が見ている目の前で、暴れる娘を柔道の寝技で取り押さえたこともあります。(笑)親子で言い争いをした時、娘がひとりで交番へ行って『家に帰りたくない』と訴えて、児童相談所へ保護されてしまったこともありました。強いこだわりがあり、苦手なことがあり、様々なかけひきをしかけてきたりするので、息子の障がいとはまた、全く別の大変さはあります」

 

「『兄弟児』という言葉を聞いたことがありますか?兄弟の誰かに重度の障がいや病気があって、親の注意や労力が全てその子に注がれた結果、健常な兄弟姉妹の方にも発達の遅れや情緒的な問題が起こる状態のことで、そのような呼ばれ方をします。娘は、兄につきっきりだった私に甘えることができず、我慢を強いられることも多かったのかもしれません。息子が長期入院した直後に、反抗期のようなものがやってきて、親への反発、拒否、嫌悪が強くなりました。愛着形成が不十分だったかな、と感じました。不登校にもなりました」

長女は、小学4年生の時に、発達障がいと診断された。年齢に不相応なほど、親に甘えてくるという。

「私もいろいろと勉強をして、今は、育て直しをする気持ちで、娘と過ごしています。実年齢は高校生ですけれども、今は、普通だったら幼児期にやってくる、最初の『イヤイヤ期』を抜けたような状態です。不登校で学校になじめなかった時期を乗り越えて、同級生と話ができるようになってきましたから、やっと小学校で友達を作り出す7、8歳くらいの感覚でしょうか」

長女は、あしなが育英会の奨学金を利用しながら、高校へ通っている。ゆっくりとだが、自分のペースで成長し、仲間と学ぶ喜びを体感している。

行政書士は天職

ひとり親はただでさえ厳しいものだが、障がい児となると、その舵取りは一層難しくなる。

「行政の支援なくしては、とてもやっていくことができませんでした。私は、息子が障がいを持って生まれたときも、夫が他界した時も、割とすぐにその現実を受け入れて、『では、次どうする?』と考えることができました。今、自分はこういう状態です、こういう支援が必要です、ということを、冷静に伝えることができたので、様々な支援につながれたのだと思います」

長男の場合は、健康状態や、医師とのやりとり、データなどの情報を全てノートに書きとめて整理できていたお陰で、支援につながりやすかった、とあづささんはいう。情報を整理する能力は、夫が他界した時にも活かされた。

「伴侶が急死するということは、本当に大変なことで、様々な手続きを、子どもの世話という日常を続けながら、全てこなさなければいけないわけです。私はたまたま、情報を整理したり、書類を作ったりすることが得意でしたから、大変ながらも自分でやることができ、支援にもつながれましたが、同じ状況で、困る人はきっと多いだろうと感じました。行政書士になろうと考えたのは、このような経験をしたからこそです。家事や育児は苦手なのですが、書類づくりは得意でしたので。家事は、本当に苦手なんです(笑)」

 

長男のケアで外に働きに行けなかったこともあり、あづささんは、行政書士の資格を取って、自宅で開業することを目指した。勉強に没頭している時間は、日常を忘れることができ、ストレスの発散にもなったという。

「国家試験は3度目の挑戦で合格しました。3度目の試験の直前に、息子が心停止するというトラブルが起こりました。病室の息子の横で、涙を流しながら単語カードをめくっていたのを覚えています。試験会場では携帯電話は使えませんので、息子に急変があったらどうしよう、病院から連絡があったらどうしようと、気が気でなりませんでした。何としてでも合格したかったです」

平成25年の試験に合格し、平成26年に行政書士として開業した。長男は、心停止の影響で長期の入院生活を送ることになったが、1年後には、特別支援学校で再び学習できるまでに回復した。

強みは当事者であること

「勉強を頑張れた背景には、夫を亡くされた方、私と同じように障がいのある子を育てている方を支援につなげるお手伝いをしたいという思いがありました。福祉は原則として申請主義なので、本人や家族が申請しなくては始まりません。行政の情報に自らアクセスしなければならないので、それだけでもハードルが高いのです。情報の仕入れ方を知り、要領のいい申請を行うことは、簡単ではありません。窓口でいくら窮状を訴えても、基本的に、窓口の人は当事者の代わりに書類を作ってはくれません。自分がいかにつらい立場にあるか、自分の状況がどうであるかを書面にしないと申請することができないのです。生活が精一杯の状況で、疲労困憊の中で、行政とつながろうと行動を起こした時に、そのようなハードルに押し返されて、乗り越えることができないケースがとても多いのが現状です」

 

支援の情報にたどり着けない人は、家族だけでなんとかしようと頑張ってしまったり、家族の問題なのに、外に助けを求めるのは「逃げ」になるのではと考えてしまったりする、とあづささんは続ける。そういう人たちの助けになりたいと考えている。

「私の強みは、当事者でもあるということです。自分と子どもたちのために必死で情報を探した経験も、申請に走り回った経験もあります。だから、私のところに来てくださる方には、まずねぎらいの言葉を伝えます。そして、知って頂きたいのは、『まだ、大丈夫』と思い始めた時は、限界が見えてきた時だから、実は『もう、危ない』んですよ、ということです。余力があるうちに情報収集をしておく必要があるので、『まだ』は、『もう』ですよ、とお伝えしています。『余力』がとても重要なのです」

限界まで頑張った末に、ようやく発した『助けてください』をシャットアウトされると、もう、次の助けを求められなくなってしまう、とあづささんは感じている。限界が見えてきたタイミングで相談に行き、「この段階になったら、こういう支援がある」と知ることで、支援の申請のタイミングも分かり、準備を整えらえるそうだ。

「次の段階の目安があると、ゴールが見えないしんどさからは解放され、心理的には楽になると思います」

 

相続についても、同じことがいえる。小さな子ども、特にあづささんのように、障がいを持つ子どもを抱えているひとり親には、いざというときの遺言書を、元気なうちから準備しておくことを勧めている。

「当事者の私は、こうしていますよ、とお伝えするとことで、耳を傾けてくださることが多いです。『実は、障がいを抱えている子を育てています』とお伝えすると、『実は、うちも』と、話がはじまります。『実は…』は、とても重要なキーワードなのです。支援を受けやすい方は、『実は…』と、自分の困りごとを言葉にできる力を持っている方です。自分で頑張っているということにとらわれている人や、支援を拒みがちの人は、支援を受けにくい方々であるともいえるのです」

 

あづささんは、夫と死別をしていることも、子どもに障がいがあることも、隠したことが無いという。

「自分の努力で変えられることであれば、我慢してでも頑張るかもしれませんが、夫の死も、子どもの障がいも、私の努力では変えられません。それならば、それを受け入れて『次』に集中した方がいいと考えます。素直に助けを求め、感謝して支援を受けたことが、私にとっても、子どもにとっても良い結果につながりました。個人情報保護法もあって、個人情報は秘密にしているほうがいいという風潮はあるかと思いますが、支援を受けるためには、ある程度の開示は必要ということを理解していただきたいです」

 

長男を自宅で介護していた時は、とぎれとぎれの睡眠が3時間程度の日々だった。利用できる支援は、めいっぱい利用しようと、制度について勉強し、申請の仕方も工夫した。その苦労や経験が、今の仕事に活かされている。

「申請の窓口で聞かれないことは、なかなか自分の口からは発言できないものです。伝えられなかった情報は、支援者側からすると、『追加して考慮される情報はない』ということになり、そのまま審査されてしまうわけです。あらかじめ、生活の状況や、健康状態、家族からの支援状況、経済状況、資産状況などを書面に記して持参することで、窓口で伝らえる情報の量が増え、客観的で正確な情報が提供されます。担当者との会話が円滑になります。追い詰められた心境で、慣れない場所に行って、支援を申請するだけで、緊張やストレスは相当強いはずです。言いたいことを言えなくなってしまったり、感情的になってしまったり、伝え忘れたりしても、ごく、当然のことですね。行政書士の私の仕事のひとつは、利用者と時間をかけて面接をし、伝えてもらった情報を『申立書』として書面にまとめること、そして、申請するときも同行して、必要なことはもれなく伝える助けをすることです。こうすることで、ひとりで申請したときには、窓口ではね返されてしまった人でも、申請が通ることがよくあります」

 

福祉の申請に大事なのは、「情報整理」「情報活用」「伝え方」だという。あづささんは、障がい児を育てている親を対象としたセミナーを開催して、情報の集め方や、情報の伝え方の指南もしている。

「障がい者をもつひとり親は特に、『親亡き後問題』というものもあり、情報収集や、準備、手続きが必要だったりします。私は支援者であると同時に、当事者でもありますので、皆さんと一緒に勉強しながら、情報を発信しています」

福祉は、ふ、く、し、「ふ」だんの「く」らしの「し」あわせ

「息子の仮死状態も、夫の突然死も、病院で起こったことで、病院の不手際を責めて訴訟にもっていくことも、その気があればできたかもしれません。でも、私はそうしたくありませんでした。訴訟をしても、息子の状態は変わらず、夫は生き返りません。私は、被害者として人生を送りたくなかったのです。原因を究明して、同じことが起こらないようにすることは大事ですけれども、誰かの不手際を責めることはしたくありませんでした。医師も、看護師も人間。感情を持ち、間違いもある人間です。息子の場合、病院との関係は、その後もずっと続いていくわけです。『この状態は変わらない。だったら、次どうする?』を、医師や看護師も含めて、考えていかなければならない。ならば、遺恨なく、互いに協力して、息子が生き延びていくための治療や介護に意識を集中した方がいいと思いました」

 

運命を受け止める。そして、受け入れる。その中で、持てる力を使って、最良の結果を導く。そこに、柔道で培った柔らの心が活きてくる。あづささんの言葉からは、強く、しなやかで、ぶれのない、心の内が見えてくる。

「そうです。精力善用、自他共栄です!」

普段の暮らしを幸せに。そのために、最善の方法を選び、協力して生きていく。福祉とはそういうものでは?と、あづささんは、さらりという。

佐々木あづささん柔道

柔道に打ち込んだ若き日々

生まれ変わっても、この家族でいたい。何度でも、何度でも

「人生において、自分では変えようのない渦に巻き込まれることがあります。でも、私の人生にとっては、夫の死も、子どもたちの障がいも意味のあることなので、感謝しています。もう一度、同じ人生を望むか、と言われたら、はっきり、『それを望みます』といいます。強く言えます」

多くの気づきと、学びと、成長を、自分にもたらしてくれた家族を、あづささんは愛してやまない。

「娘も、ゆっくりと成長しています。ひとりで外出時にパニックの発作が起こったら、どう対応して、どこに連絡を取って欲しいか、一枚に書きまとめたものを携帯しています。自分から、情報発信することが身についてきました。実際に、その紙のお陰で助かった経験もしました。支援希求行動が身につくと、将来的に、支援を受けやすくなるのではないかと思っています」

 

夫が亡くなった時に、長男を育て、長女を独り立ちさせるまでが親の責任と思った。健常の人のように、全てを自分で行う自立は無理かもしれないが、支援を受けられる、助け合いの中で生きていければいいと思っている。

「夫と同じところに行ったときに、『よく頑張った!』って言ってもらうのが、私の人生の目標です。生まれ変わっても、この家族でいたいです。何度でも、何度でも。あぁ、でも、もう2度と夫を見送ることはしたくないかな…(笑)」

人生の一本勝負。あづささんは、粘り強く、しなやかに、朗らかに、楽しんで生きている。

 

(インタビュー 田上菜奈)

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や心のケアプログラムの保護者チームの運営に携わっている。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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