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保護者インタビューまなざし「子育ては最後まで夫とふたりで」

保護者インタビューまなざし #28 

tomoniさん (兵庫県 50代)

 

tomoniさんと夫は、同郷の出身で同級生だった。26歳の時に結婚をして、3人の男の子を授かった。元気だった夫が、突然亡くなったのは37歳の時。子どもたちは、まだ4歳、7歳、10歳と幼かった。3人3様の子育てを経て、全員が成人した今、tomoniさんはどのような心境で日々を送っているのか。お気持ちを語ってくださった。

ドラマの中にいるような…

夫が亡くなったのは早朝だった。いつものように目覚まし時計が鳴って、いつものように夫が先に起きた。10分ほど遅れてtomoniさんがリビングへ行くと、夫が床に倒れていた。すぐに救急車を呼んだが、夫は息をしていなかった。

「救急車がきてくれて、はしご車も消防車も一緒にきて、あたりが急に騒がしくなりました。病院へ搬送して死亡が確認された後は、パトカーで自宅に戻って、警察の現場検証に立ちあいました。『窓は開いていませんでしたか?』『怪しい人影はありませんでしたか?』と、質問され、家の中を鑑識の人が歩き回って…。あれ?これって、テレビでよく見るやつじゃない?ドラマみたいやな…って思ったのを覚えています」

 

大変な事態だというのに、まるで現実味を感じられなった。tomoniさんは、物音も、うめき声も、何の気配も感じることなく、倒れた夫を発見した。伴侶との別れは、唐突にやってきた。

「その時に、救急車や、パトカーの音がすごかったので、今でもサイレンの音を聞くのが怖いです。外に出掛けるときも、サイレンが聞こえてこないよう、ずっとイヤホンをして、音楽を聴いています。ドラマとか、テレビニュースで、同じようなシーンが出てくると、見ることもできません。どこか…受け入れられないところがあるんだと思います」

 

夫の死後、半年くらいは、眠ることができなかった。眠りたいのだけれど、「目が覚めた時に、自分が死んでいたらどうしよう」という思いにかられて、眠るのが怖かった。夜勤の夫が帰ってくるような気がして、落ち着かない時もあった。子どもたちも眠ることに敏感になっていた。昼間にtomoniさんが疲れてウトウトしていると、子どもたちが起こしにきた。

「お母さんも死んじゃったんじゃないか、って心配して起こしにきました。子どもたちも、私と同じように眠るのが怖かったのかもしれません」

tomoniさんにとっても、子どもたちにとっても、切ない、心細い日々だった。

 

夫の夢、マイホーム

夫は前向きでポジティブ、明るくて豪快な人だった。「そんなん、気にせんでええわ」と、ぐいぐい引っ張ってくれる人。段取りが上手く、人望も厚かった。アウトドア派で。海辺の公園でよくバーベキューをした。それでいて、几帳面の綺麗好き。休日には家事もよく手伝ってくれた。

「お弁当を毎日作ってくれてありがとう、弁当箱は自分で洗うわ」

と、自分で弁当箱を洗うような人だった。普段は夜遅くまで仕事をしていたが、家族の誕生日やクリスマスといったイベントの時には、必ず早く帰ってきて、家族との時間を大切にしてくれた。

「すごく優しい人で、ケンカもしなかったです。ケンカのひとつでもしていたら思い出になったのになぁ…って思うことも」

 

建築関係の仕事をしていた夫にとって、マイホームは夢だった。2人で時間をみつけては土地を見てまわって、家を建てる計画を練った。設計が決まり、ローンも組んで、建築許可が下りた数日後に、夫は突然、この世を去った。

「建てるかどうか、随分と迷いました。両親は、すぐに田舎へ戻って来いと言ってくれました。でも、夫の夢を叶えるのは、自分しかないと思って、建てる決心をしました。彼がやり残したことは、全部私がやらなくては、という思いが強かったです」

 

新しい家に移って間もなく、クリスマスがやってきた。

「夫は、クリスマスも大事にして、家族で過ごしたことを思い出して、新築の家に2メートル10センチのクリスマスツリーを立てました。子どもたちと飾りつけをして、それはそれはきれいで豪華でした。でも、ツリーの大きさばかりが目について、お父さんのいないクリスマスが余計に寂しく感じました。飾ったのは1度きり…その後はずっと、箱の中で眠っています。残念ですが、誕生日やクリスマスは、夫が『居ない』ことを再確認してしまうので、楽しくない日になってしまいました」

 

tomoni's family

三男4歳の誕生日。家族揃って祝った最後の誕生日。

そっとしておいて欲しい…

伴侶との別れは、とてつもなく大きな喪失体験だ。遺された家族は、様々な感情をともなうグリーフ(悲嘆)を体験する。つらい気持ちを誰かに話したい、悲しみを吐き出して少しでも楽になりたいと思う反面、そっとしておいて欲しい、誰に言ってもとうてい理解してもらえない、という相反する気持ちがある。

 

「38歳という年齢で、伴侶を亡くした人は、周りにいませんでした。突然死と知って、『何か予兆は無かったの?』と聞く人が多かったのですが、彼の変化に気づかなかったことを責められているように感じて、つらい質問でした。『大変やったね』『可哀想』と言われるのも嫌で、段々と人目をさけるようになりました。ママ友たちがスーパーで買い物をする時間帯は避けるとか、人に会わない工夫をしていました」

実家から、母親が手伝いに来てくれても、母親の顔を見ると自然と涙が出てしまい、困らせてしまうのが常だった。

「母が、泣く私を見て、オロオロするのが分かりました。申し訳なくて、『有難いんだけれど、もう来ないで。自分が泣きたい時に、泣きたいから…』って伝えました。その頃は、感情がコントロールできなくなって、勝手に涙が出てしまうことが度々ありました」

 

正直なところ、突然夫を失って、どうしていいか分からなかった。あまり親しくない人には、夫の死を告げなかった。なるべく平静を装っていた。それは、子どもたちも同じだったかもしれない。だが、平静を装ったとしても、当事者の心の内側は複雑で、感情も激しく動いている。

 

「次男の担任が家庭訪問に来た時、『(次男)くんはお父さんを亡くして寂しくないんですかね?いつも元気で、ニコニコしているんですよ』と言ったんですよ。先生に悪気はなかったのかもしれませんが、当事者の気持ちが少しも分からない人だなと思いました。『悲しくないわけがないじゃないですか!』って伝えましたが、それが現実です。学校の先生ですら、そんな感じで、遺族の気持ちは分かってもらえないのです」

 

tomoniさんは、壁にぶつかる度に、

「なんで先に死んじゃったん?私が先に死ねばよかったのに…」

と、仏壇の前で泣いた。

「何度も、何度も、そんな日がありました。仏壇の前で涙を落して、泣き疲れてしまって。でも、その度に、泣いてる場合じゃない、私は夫に生かされているんだって思いました。夫が生きられなった分、私が代わりに生きて、彼ができなかったことを私がやるんだって、自分を奮い立たせてきました」

 

長男と夫

つどいへの参加とレインボーハウスでのボランティア

葬儀では、へたり込んで泣いたtomoniさん。仏壇の前では涙を流しても、子どもの前で涙を見せないよう努めてきた。気が緩むと泣けてくるから、いつも口角上げていようと頑張ってきた。

「今、振り返ると、母親が泣かなかったから、子どもたちも泣けなかったのかもしれない、と思ったりします。長男が中学3年生の時に、あしなが育英会奨学金のことを知りました。つどいのことも、レインボーハウスのことも、その時に知りました。もっと早く知っていれば、親も子も、もっと早く気持ちを吐き出せたのに…って思います」

 

最初に長男が、あしなが奨学生となってつどいに参加した。

「あまり詳しい話はしてくれませんでしたが、持ち帰ってきた作文を読んだ時に、同じ境遇の友達を得て、今まで胸の内に抱えてきたものを吐き出せたんだなって分かりました。それ以降、長男はあしながの活動にはまって、神戸のレインボーハウスでボランティアを始めました。ケアプログラムのファシリテーターです。足しげく通っては、子どもたちと遊んでいました。『今日は、お父さんが亡くなって、悲しくて眠れないっていう子と一日、一緒に遊んだ』というような話をポロっ、ポロっと語ってくれました。『自分がして欲しかったことをしているんだ』『自分もとても満たされるんだ』とも。大学のサークルに入るよりも、よっぽど楽しかったみたいです」

 

長男は、あしなが学生募金の活動にも夢中になっていった。大学2年生の時は、全国規模で行われる募金活動のエリア代表を務め、3年生の時にはコロナ禍ではあったが、第100回募金の局長を務めた。

「長男は、あしながの活動にのめりこむことで、自分が失った何かを取り戻していたのかもしれません」

もう夢はついえてしまった

今年、三男が大学へ進学を果たした。長男はすでに社会人、次男は首都圏の大学に在学中だ。全員が成人し、母親としての役目は最終盤といったところか。夫が亡くなってからの14年間。遺志を継いで家を建てて、その家で3人の子どもたちを育ててきた。3人が望んだ大学へ進学させることもできた。

「大学を決めるのも、私は一切口出ししませんでした。全部本人が決めてきました。でも、3人とも私立の大学へ進学して、次男は、地元を離れての学生生活でしたから、仕事を頑張っても経済的にはずっと大変でした。家を建てたとき、心の中で夫に誓いました。『あなたができなかったことを、私が代わりに全部やる。でも、もし、最後の最後でどうしてもお金が無くなったら、この家を手放すことを許してね』って」

 

そして、tomoniさんは今年、家を手放す覚悟を決めた。

「自分の子たちが、ひとりで生きていけるように育てるのが私の役目と思ってきました。18歳になったら、家から出て行ってね、って小さなころから言ってきました。それは、しっかりと自分の力で前に進めるようにして欲しい、たとえ私の身に何かが起こったとしても、夫を失った時の私のように全てを見失わないで欲しいという思いからです。みんなが18歳になったら、私自身もひとりで生きていこうと、心の準備をしてきたつもりです。でも実際にその時がきてみると、肩の荷がおりたとホッとする気持ちと、寂しさがないまぜになっているのが本心かな。この家が最後の最後まで、子どもたちの教育を支える砦となってくれました。夫には、本当に感謝しています。ずっと、一緒に子育てをしてくれたような、そんな気持ちです」

 

家を建てたのは、夫が急逝した直後だった。遺品の整理をする間もなく、全部を箱に詰めて、新居に引っ越した。子育てを終えて、家を売り、小さな暮らしに移ろうとしている今、その箱を開ける時がきた。封じ込められていた14年前の空気を、tomoniさんは再び吸うことに。

「夫は毎年、私の誕生日に花束とメッセージカードを送ってくれました。荷物を整理していたら、そのメッセージカードが出てきて…開くと、『ハッピーバースデー』の曲が流れました。14年間、アッと言う間といえばアッと言う間、長かったといえば長かったです。夫が亡くなったのは、遠い昔やなっていう気がします」

 

夫と2人で土地を探していた時、近くの海岸が気に入ってこの場所を選んだ。

「休みの日には、海岸を散歩しよう」

と夢を語りあった。

「その夢がついえてから、夢はないです。毎日必死でした。夢を見る余裕がなかったです。自分の夢を語れる人がうらやましいかな(笑)。でも、あえて言うなら、この町が好きなので、ここに住み続けたい。あとは私がいつかあの世に行った時に、私だって気づいてもらえるように、若々しくいたいです。上手に年を重ねていくのが夢かな。それは夫が出来なかったことだから」

 

遠い日、夫がこう言っていた。

「人と同じことをやっててもあかん。自信は自分でつけるもの」

tomoniさんは、その言葉を忘れない。これからも、いろいろなことを諦めないで、年を重ねて生きていきたい、と決意を語ってくれた。

 

tomoni with her husband

37歳のとき。兵庫県の動物園で。

 

 

インタビュー 田上菜奈

 

◇◇◇

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