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保護者インタビュー「何とかなる」を積み重ねた先に未来がある

保護者インタビュー まなざし#20 

「『何とかなる』を積み重ねた先に未来がある」

吉田真紀さん(栃木県 40代)

 

真紀さんが32歳の時、最愛の夫が帰天した。短い闘病生活の末に、5歳、3歳、生後2か月の子ども3人を残して夫がいなくなってしまったとき、「お先真っ暗とはこのこと」と、真紀さんは思った。子育てと産後の疲労の中、突然ひとり親となり、体調は思わしくなく、実家も遠く、絶体絶命と思われた。「今、思い返しても、ひとりでは乗り越えることができなかったと思う」という真紀さんを救ったのは、地域の隣人、友人たちだった。その後も決して平たんではなかった道のりを、どのようにして笑顔で歩むことができたのか、お話をうかがった。

18歳までは親の責任 その後はご自由に

「あしなが育英会につながったのは、2番目の子、長女が高校へ進学する時でした。海外への留学プログラムがある高校へ進学したいというので、何としても夢を叶えてあげたいと、必死で奨学金を探しました。高校3年間のうち1年を海外で過ごし、ホームステイしながら地元の高校へ通うという体験は、娘にとってかけがえのないことだったと思います」

同学年のクラスメイトが11人いたが、その中の1人もあしなが育英会の奨学生であったことが、後に分かった。

「つどい(あしなが育英会主催のサマーキャンプ)に参加して、その場で同級生と会って、はじめてお互いがあしながの奨学生であることを知ったのです。その時に、あしながってすごいなって思いました。たくさんの学生が利用しているんだなって。あしながの奨学金がなければ、兄である長男も大学へ進学できなかったと思いますし、今は次男もあしなが奨学生となりました」

 

子どもたちは3人3様、それぞれの夢を追いかけている。親として、18歳までは、やりたいことを最大限サポートしたいと考えている。その後は、口を出さない方針だ。

「子育ての中で、『お父さんがいないせいで…』と、父親を言い訳にして欲しくないという気持ちがありました。被害者意識で生きて欲しくなかったというか。そうではなくて、『お父さんのおかげで…』と思えるようになって欲しいと。お父さんのおかげで、こんな人と出会えたね、こんな経験ができたね、と何かにつけて良かったね、にしたいのです。実家の近くに越したのも、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がってもらえてよかったね、あの人とも知り合えてよかったねって。でも、だからって『お父さん死んで良かったね』じゃないからね!って、オチをよく使うんですけれど(笑)」

真紀さんは、子どもたちが、何にでも感謝できて、悪い状況も受け止められる人になって欲しいと望んでいる。悪い状況になっても、「じゃぁ、どうしようか?」と考えられる、前向きで生命力のある大人に。

「我が家ではよく、こういう状況だから、どうしようか?と作戦会議をします。中高生ですから、情報を集めるのは助けが必要ですし、それが向いているのかもやってみないと分からないですから。親としてできるサポートは全力ですると決めています。18歳まではですね!」

まなざし♯20挿入1

理想を形にしたような夫

真紀さんは、子ども時代から持病があり、それゆえに結婚も、出産も無理ではないかとあきらめていたという。しかし、1年半の沖縄赴任を命じられた時に、体調は不安ながらも挑戦しよう自分で決めて、無事に成し遂げたことや、その時に出会ったルームメイトが心の支えとなったことなどから、「こういう自分だからこそ、逆に伴侶が必要なのでは」と考えを改めた。

 

そんな時に夫と出会った。8歳年上で、頼りがいがあり、美術を愛する優しい人だった。結婚してからも、妻をいたわる思いやりのある伴侶、子どもたちに向き合ってくれる素敵な父親になってくれた。結婚生活は6年間だったが、その間に3人の子どもに恵まれ、愛に溢れた家庭を築くことができた。いつでも家族を大事にし、真紀さんを第一に考えてくれる夫だった。

「食事の準備と母乳以外の家事と育児は、何でもこなしてくれる人でした。私が2人目の子を産んだ後、産後の疲労と情緒不安定から、持病が悪化して眠れない日々が続いた時も、私のことを最優先で考えてくれ、転居など大きな決断をしてくれたのです。とてもありがたかったです」

 

夫が40歳になった年は、まさに怒涛と呼ぶのがふさわしい1年だった。7月に新居に引っ越した。8月に、夫は足が痛いといって針治療を始めた。9月中旬、3番目の子どもが誕生。9月下旬に夫が整形外科を受診した際、骨に腫瘍があることが分かり、がんセンターで検査。間もなく内臓にもガンがあると分かった。病院と自宅で療養していたが、容態が急変して11月下旬に帰らぬ人となった。ガンが発覚してから、わずか40日の闘病生活だった。真紀さんは32歳という若さで、いくつもの大きなライフイベントを受け止めなければならなかった。

 

「夫は、闘病中、『つらい、苦しい、何で俺がこんな目に…』といった文句を一度も口にしませんでした。ありがとうね、と感謝の言葉ばかり。ガンが全身に転移して、話すことが出来なくなってからも、泣く私のことを、動きにくくなった手でさすってなぐさめてくれました。常に、感謝と愛を伝えてくれて。40歳で人ってこんなに立派になれるのか?と思うくらいでした。人は、人生をこんな風に終わることもできるんだ…とある種の感動のような感覚がありました。でも、現実には、亡くなる直前まで、絶対に治るに違いないと信じていて、夫を失う覚悟はできていませんでした」

 

夫の全身にガンが転移して、身体能力が奪われていくなか、視力にも影響が出た。ものが2重に見えるようになった夫は、仕事に復帰できるか不安だ、とつぶやいた。

「その時、私は『じゃぁ、治ったらお家にいたらいいよ、好きな絵を描いたらいいじゃない。あなたの才能を活かす時がきたよ。今度は、私が働きに行けばいいのよ』と、彼に伝えました。その時、彼の頬を涙が伝って落ちるのを見ました」

夫が年上ということもあったし、自分が出産や病気で体力的に弱っていたこともあって、夫と過ごした6年間は、彼を頼って暮らしてきた。その会話をきっかけに、真紀さんは自分の何かが変わったと感じた。

「初めて、自分が強くなれた瞬間でした。ずっと彼に甘えていたので、そんな自分から脱却するきっかけになったといいますか」

 

しかし、実際に夫がいなくなると、真紀さんは3人の乳児と幼児を抱えてどうしたらいいか分からなかった。

 

 

お先真っ暗とはこのことか

「本当に、どうしたらいいんだろうと思いました。お先真っ暗ってこういうことなんだなって。遠―い向こうに、小さーい希望の光がポツンと見えていて、そこに向かっていった感じがします」

絶望はしていない。不幸でもない。これは何かの罰でも、私が罪を犯したからの出来事でもなく、自然な成り行きなんだ、と真紀さんは思った。それならば、自分たちのために、何の方法も用意されていないわけがないと考えるようにした。

「自分の目に道筋は見えていないけれど、『何とかなる』と信じました。今日まで至る道のりは平たんではありませんでしたから、『いや、無理でしょう』と思うこともたくさんありました。でも、その都度、周りの人が助けてくれて、なんとか途切れないようにつなげてくれたのです。毎日のように、誰かが手を差し伸べてくださり、その度に『何とかなる』を積み重ねてきました。未来は、『何とかなる』の延長線上につながっています」

 

真紀さんの両親は、遠方に住んでいたことに加え、祖母の介護を抱えていて、頼ることは難しかった。しかし、真紀さんの周りには、地域やコミュニティの人がたくさん集まってくれた。2人目の出産後に体調を崩したころから「お手伝い」は始まり、夫の闘病中も、死別後も手助けは絶えなかった。ご近所の人、ママ友、コミュニティの仲間が入れ替わり立ち代わりやってきて、子どもの世話や、家事、送り迎えなど、様々な手伝いをしてくれた。

「体調を崩して運転ができなくなった時期に、ご近所の方やママ友たちがリレー方式で、こどもたちを毎朝、幼稚園まで届けてくれました。帰りも家まで送り届けてくれました。送迎バスがない幼稚園でしたので、本当に助かりました」

 

また、真紀さんがかつて世話をしていた、地域の子どもたちが大学生に成長して、今度は真紀さんの子どもたちの面倒を見てくれるようになった。夫の死別後には、毎日大学生や友人たちが、泊まり込みで子どもの世話や、家事の手伝い、真紀さんの話し相手をしてくれた。家族だけで食事をする日はなかった。誰かが、毎日、手をさしのべてくれたことは、真紀さんの大きな慰めとなった。

「子どもが『カレーが食べたい』と言ったとき、『今日は材料がないから、明日作ろうね』と話していたら、ママ友がカレーを届けてくれたことがありました。もちろん、その人は私たちがそんな会話をしていたのを知らずに、『たくさん作ったから』と届けてくれたのですが、私たちは飛び上がって喜びました。カレーに関しては、そんなことが2回もあったのです!さりげなく見ていてくれたり、気にかけてくれたりする人がいて下さったことが凄いなって思います。それ以来、私たちはカレーを愛の食べ物と呼んでいます(笑)カレーの形をした、愛を頂いたと思っています。本当に人の温かさに生かされました」

 

今、真紀さんの子どもたちが成長して、当時手伝ってくれた大学生たちの、子どもの面倒を見ている。愛の循環がそこにある。子どもの世話や、大人との会話から学ぶことも多くある。信頼できる地域のコミュニティがあることを、真紀さんはとても幸せに感じている。

子どもの自立が大切なわけ

「夫が亡くなったときに、こんなちっちゃな子を残して、って言われましたけれど、ちっちゃな子がいて、やることもいっぱいあったので、夫の死を乗り越えることができた、とも思っています」

真紀さんには、確固たる子育ての目標がある。

「子どもたちが18歳になるまでは、一生懸命に育てよう、と思っています。なるべく夢を叶えてあげられるよう、一生懸命に動きます。でも、18歳になったら、家を出て独立するよう伝えてあります。何をするのも、自分で決めなさい、って。正直、厳しいとは思いますが、お互いに出ていく、自立するという目標を設定することで、将来を意識できますし、目標達成の目安になります。子どもが自立して、自分で自分を幸せにすることができて、他の人と一緒にいても幸せになれて、誰かのことも幸せにできたらいいな、という思いで子育てしてきました。自立を促すのも、制限を設けるのも、親の責任かなと思っています」

 

以前、真紀さんはアロマセラピストとして仕事をしていた。その時に、不調を訴えるクライアントの多くが、夫、子ども、姑など、家族関係に問題を抱えていることに気づいた。特に、親と子の関係がこじれて、絶縁状態になった話などが気になった。

「誰にとっても、子どもは生きがいですが、子どもに自分の夢を託したり、彼氏・彼女のように接したり、子どもの結果が自分の人生の結果と思ってしまったり、『子どもが、子どもが…』となっている人に、『あなた自身の人生は?』と問いかけると、本当に困った顔をなさっていました。そんな姿を見ていたので、自分の子はきちんと自立させなくては、という考えを持つことができました」

幸せな家庭が増えたら、社会が幸せになる

では、真紀さん自身は、自分の人生をどう生きようと考えているのか。

「私は自分の人生がよかった、結婚してよかったと思っているので、その望みを持っている人のお手伝いを仕事にしたいと思いました」

現在は、恋愛、結婚、子育てをサポートするスクールを運営している。

 

昨今、自分を一時的に楽しませるものはたくさんある。時間をつぶす方法は多種多様だ。しかし、「よろこび」ということになると、違う感情になると真紀さんは考える。

「楽しいは一時的。よろこびは永続するもの。よろこびとは、自分が成長することだったり、自分が誰かにいい影響を与えることだったり、逆にいい影響を得ることだったり、人を通してでしか得られないものかなと思います。面倒臭くて、コストパフォーマンスも悪いんですけれど、目先の損得では得られないものがよろこびなのかな。努力をするとか、苦労をするとか、困難を乗り越えるとか、悩んだ末にブレイクスルーして成長する感覚というのは、自分ひとりでは得にくいものではないでしょうか。若い人には特に、人やコミュニティと関って、責任を持つことから得られる体験を、ぜひ、して欲しいです。苦労はあっても、永続するよろこびを誰かと共有できる、素晴らしい体験。それを手っ取り早く体験できるのが結婚だと思っています」

 

多様性の時代。個の時代。一時的な楽しみがたくさんある時代。しかし、同時にそれは、孤立の時代、格差の時代、多くの資質を求められる時代でもある。家族、友人、地域の関わりを、改めて見つめ直して欲しいと真紀さんは思う。人は、長い歴史の中で常に、家族やコミュニティと暮らしてきた。人との関わりの中から、幸せは創出される。

「あしながの奨学生の中には、『自分も、お父さんお母さんのようになったらどうしよう。そんな苦労をしたくない、させたくない』と考える人がいるかもしれません。でも、親の人生と、自分の人生は切り離して考えて欲しいです。そうなったらどうしようと恐れるのではなくて、自分がしたいことに焦点を当てて、自分がどうなりたいのか、どんな結婚をして、どんな親になりたいのか、ということを想像して欲しいです。幸せな家庭が増えたら、社会が幸せになると信じています」

 

(インタビュー 田上菜奈)

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や心のケアプログラムの保護者チームの運営に携わっている。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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