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保護者インタビュー「人生野球7回の表、いつでも5人の総力戦」

保護者インタビューまなざし#22

「人生野球7回の表、いつでも5人の総力戦」

木本努さん(50代 京都府)

 

木本努さんが13年前に妻を亡くした時、3人の息子たちはそれぞれ2歳、6歳、11歳だった。それまでは、家事も育児も妻任せ。仕事に没頭できる環境の中で、会社の代表取締役にまで上りつめた。子ども好きで子煩悩だった努さんをしても、仕事と家庭の両立は想像を絶する大変さで、精神的に追い詰められてしまった。息子があしなが奨学生となり、子育てのフェーズも変化している。野球を愛する努さんの人生は、試合に例えるなら現在7回の表といったところだろうか。これまでの奮闘と、これからの展望をお伺いした。

最愛の妻の、突然の死

努さんと妻は、高校の同級生だ。社会人になってから、京都の町中で偶然再会し、4年後に結婚した。

「妻とは29歳の時に結婚しまして、新婚旅行はアメリカへ、野球観戦に行きました。叔母が野球雑誌の出版社に勤めていたことから、ぼくは小さなころからメジャーリーグが大好きで。特にシンシナティレッズの大ファンでした。新婚旅行は12日間で3都市を回って9試合を見るというハードスケジュールでしたけれど、妻もすっかりメジャーリーグの魅力にはまりました」

その後も、毎年5日間の休みをとっては、2人でシアトルを訪ねて、野球観戦をした。同じような旅程で、馴染みの店をめぐるのが、何とも楽しかった。

「また、1年間仕事を頑張ろう。そして、来年も絶対に行こう!」

それがふたりの合言葉になった。シアトルへの旅は4回を数えた。

 

子どもを授かってからは、妻は家事と育児に、努さんは仕事にまい進した。43歳で、会社の社長に。「役職は当番です」と、本社の研修で言われていたので、回ってきた当番を全うしようと覚悟を決めた。その年には三男も生まれて、人生は順風満帆に思われた。

 

2009年の年明け。妻の咳が気になって病院で検査を受けた。結果は、誰も予想だにしていなかった、重篤な病気だった。

「その日は妻の45歳の誕生日でした。仕事を終えて、夕方病院へ行くと、妻の口から『ガン』という言葉が出ました。医師の説明では、胃がんが肺にも転移した状態で、手術はもうできないとのことでした。余命は、数ケ月とも告げられました」

 

(うそやん。うそやん!)

努さんは、考えたことすら無かったこの事態に、冷静さを保つのが精一杯だった。妻の希望を尊重して、子どもたちにも、家族、友人にもガンであることは告げずに、闘病する覚悟だった。

 

しかし、ガンの宣告からわずか12日後、妻は帰らぬ人となった。

 

Kimoto Family

病気の告知から3日目、最後になってしまった家族写真

子育ては孤独の「孤育て」、育児は自分育ての「育自」

「それまで、家事は妻に任せきりだったんですよ。本当に、もう、何もできなかったです。悲しいとか、泣きたいとか、そんな時間は全然ありませんでした。2歳、6歳、11歳の子どもたちを前に、毎日を回すことで精いっぱい。目前に迫っていた次男の小学校入学の準備や手続きも、何も分からないまま、進めなくてはならなかったし、炊事、洗濯、掃除と、不慣れな家事は途切れなくやってくるし。子育ての始まりは、信じられないくらい、壮絶でした」

 

突然母を失った、子どもたちのストレスは強く、普段は元気いっぱいの兄弟も体調を崩しやすかった。ひとりがウイルス性の胃腸炎にかかると、兄弟に次々とうつって、3人が夜通し下痢・嘔吐を繰り返す。そんなことが何度も起こった。徹夜での看病と、慣れない洗濯を何回もやって、ヘトヘトになっていても、朝には社長として出勤しなければならない。会社も状況は理解していたが、会長から「朝礼にだけは出て欲しい」と釘を刺されていた。社長としての責任は重かった。

 

「このキツさは、誰にも理解してもらえなかったです。親しい取引先からは『何で休まへんの?』と気遣ってもらいましたが、とにかくやるしかないという感じでした。子どもの病気への対応も分からない。子育ての何もかもに経験値がないので、全てが想定外という感じで、その時その時を必死でこなしている感覚でした」

炊事も、掃除も、洗濯も、毎回がチャレンジ。仕事は手を抜けない。1日、1日前に進むことに集中した。

 

「同僚や友人など、周りに妻を亡くした人はいなかったし、小さい子どもを抱えて奮闘する自分に、どう声をかけたらいいのか分からなかった、と後からいってくれました。仕事も思い切りできない状態で、常に葛藤があって。それを、誰にも相談できなかったことが、むちゃくちゃしんどかったです」

 

孤独にさいなまれた苦しい時期に、力となったのが、妻が遺してくれたママ友の存在だった。次男の卒園式、小学校就学の説明会や入学の手続き、保護者会。つぎつぎとやってくる学校イベントに戸惑う努さんに、情報を提供したり、手を貸したりして、励ましてくれた。

「就学説明会に集まった60人の保護者のうち、父親は自分と、夫婦で参加していたもうひとりだけ。ママ友たちは、『もし、自分が亡くなったら』と自分事のように考えてくれ、親身になってサポートしてくれました。妻が彼女たちといい関係を築いてくれていたお陰ですよね。仕事が忙しい時に子どもを預かってくれたり、体調が悪い日はおかずを持ってきてくれたり。自分の状態を隠さずにカミングアウトすることで、自分は楽になったと感じました」

 

友人やママ友に近況を報告するつもりでブログを書き始めた。苦しいことも楽しいことも文字にすることで、気持ちの整理ができた。書くことが、1日を終える前の習慣になった。読んでいる人は、自分たちにできることを見つけては、さりげない形で手を差し伸べてくれた。

 

「ある時、ふと気づいたのです。親として何も知らなかった自分は、もしかして子どもから反対に育ててもらっているのでは?と。子育ては、親育てでもあるんだなぁと思いました。そのことをママ友に話すと、『そうですよ、育児は育自ともいうんですよ』と教えてくれました。そう考えると、社員教育も、実際のところは社長教育だったわけです」

 

Sleeping kids

兄弟はとても仲がいい

「お前、いつまで引きずっているねん!」の言葉に背中を押され

「年を追うごとに、悲しみは薄れていくと思われがちですが、自分はそんなことは全くなかったです。それどころか、家事や育児でつまずく度に、お母さんってすごいな、妻はすごいなと、彼女への思いはつのりました。常に、妻を身近に感じている感覚がありました」

 

仕事人間だった努さん自身の価値観を変えるには、時間と体験が必要だった。子育てが始まったころは、子育ても社員教育も、それほど変わらないのでは?と考えていた。それを聞いたママ友はこういった。

「木本さん、社員教育では『まぁいいか』と思う時がありません?子育てには、まぁいいかはないんですよ。覚悟が必要なんですから!」

言われてみれば、会社では「まぁいいか」と思うことが度々あった。社員教育以前に、家庭教育がなっていないなと感じることもあった。子育ては、本当に覚悟の要る仕事だ。

 

努さんが、息子たちは3者3様だと気づくのに、3年もの時間がかかった。同じことを伝えるにしても、対応の仕方を変えなければ上手くいかない。それが分かってきたころ、自分の考え方や視座が随分と変化したことを実感した。

 

それゆえに、仕事と家庭の間で揺れる努さんに向けられる、同年代の男性からの言葉に、違和感をおぼえざるを得なかった。

「何で再婚せぇへんの?家事の心配なんて、結婚したら済む話ちゃう?」

「社長だから子育てできるんですよ。お金があるから」

結婚したら済む話だろうか?

お金があれば子育てができるとでも?

会社や取引先は、自分の状況を理解して、融通を利かせてくれている。しかし、時折聞こえてくるこのような言葉に、胸をえぐられる思いがした。関係が浅い人ほど、再婚を勧めるアドバイスをした。

 

妻の死から5年の歳月が経っても、努さんは仕事と家庭のバランスが取れずに苦しんでいた。むしろ、バランスはとっくに崩れているように感じ、危機感を抱いていた。会長との心の距離も、以前とは違ってきたと感じていた。そんなある日、全身全霊で仕事に打ち込めていない努さんに、会長がこういった。

 

「プライベートを仕事に持ち込むな。お前、いつまで引きずっているねん!」

 

それが、激励の言葉であることは分かった。5年という時間が決して短くないことも。

しかし、その言葉を聞いた時に、努さんの心は決まった。

 

(もう、限界。無理だ)

 

ここで取るべきは子どもたち。社長は代わりがいくらでもいる。しかし、子どもたちにとって父親である自分は、唯一無二の存在だ。

「社長という当番を果たせなくなりましたので、辞めます」

努さんに、迷いはなかった。

妻の死を受け入れるのに5年を要した

「周りは猛反対でした。『本当に大丈夫か?育ち盛りが3人おるんやで』『冷静に考えろよ、子ども3人抱えてどうするんや』って心配してくれました。でも、子育てを後悔したくなかったのです。ちょうどその頃、三男がよくぼくの膝に乗ってくるようになっていて、寂しいんだなぁと感じていました。学童の先生からも、膝に乗ってくるという報告を受けました。上の子たちにも何らかの思いがあるのを感じていました」

 

努さんの決断を、褒めてくれたのもママ友たちだ。

「子どもからの小さなSOSのサインに気づけない親はたくさんいますよ。木本さんはちゃんと気づいていてすごい。仕事を辞めたことも、いつか必ず良かったって思うはずです」

 

仕事から解放され、努さんはもちろん楽になったが、子どもたちも同じように感じていた。子どもたちの良い変化は、すぐに表れはじめた。

「ただいま!」

と、嬉しそうに帰ってくる子どもたち。笑顔が増え、勉強も進んでするようになった。

 

「仕事を辞めて、やっと子どもと向き合えました。家事にも、自分の悲嘆にも向き合うことができました。正直なところ、ぼく自身、まだ妻の死を受け入れられていなかったです。葬式以来、一度も泣いたことがありませんでした。自分が泣かなかったから、子どもたちも泣けなかったです。遺族会への参加も勧められたんですが、『自分は遺族ではない』と、ずっと参加を拒んでいました。5年経ってようやく、グリーフケアとつながることができたんです」

 

「大泣きしてくださいね」

メンタルクリニックの医師にそう促されて、妻の写真や遺品に触れる度に涙を流すことができた。病院での光景がフラッシュバックして、苦しむこともあった。5年間閉じ込めていた悲嘆が、昨日のことのような生々しさであふれ出てきた。フリーな時間を得たからこそ、泣くことができた、と努さんは思った。

 

「お父さん」から「おとうさん」へ変わっていく自分

母子家庭の先輩が、「子育ては、子どもの目線で育てないといけない」とアドバイスしてくれた。子どもの思いと親の思いは、双方向で分かりあう必要があると。努さんは、子どもたちと向き合うことに、大きな喜びを感じられるようになった。2歳だった息子が日に日に大きくなる姿に、長男や次男もたくましく、優しく育っていく姿に、幸せと感動をおぼえた。子どもたちは、妻と自分が大好きな野球をやって、心も身体も成長している。

 

この頃、子どもの口からも、母親の話が出るようになってきた。

「この女優さん、お母さんに似ているね!」

長男や次男が指さすテレビの画面を、母親を覚えていない三男が身を乗り出して見つめる場面もあった。

「お母さんとこれ食べたね」

「お母さんのあの料理がおいしかったね」

子どもたちの、他愛のない会話の中に、妻の姿が現れる。

(生きているうちから、こうやって一緒に家事ができればよかった。『手伝う』ではなくて、『一緒にやるよ』と、声かをけられればよかった)

努さんは姿なき妻に寄り添う気持ちで、家事をこなすようになった。

 

「家事に時間が費やせるようになると、工夫が生まれてくるんですよ。レシピも随分、増えました。家事が時短していくことは、仕事のマネージメントとしては評価できるポイントなんですよね。そう考えると、すごく楽しくなってきました。今日は、複数の家事を同時にこなせた。できなかったことができるようになった。手際がよくなった、といった具合です。社長時代にも、やるべき仕事を付箋に書いて、終わる度にはがしていったりして、達成感を味わっていましたけれど、家事育児にも面白さがあるんですよ」

 

「仕事を辞めた後の変化を、人には、漢字の『お父さん』から、ひらがなの『おとうさん』に変わっていった、と伝えています。子どもたちと向き合う毎日は、ドラマみたいで面白いですよ。元々ぼくはメンタルは弱い方でしたけれども、ドラマがたくさん起こるので、鍛えられました。その状況、状況で何ができるのか考えて、ひとつずつクリアしていくことで強くなっていった感じです。日々ぼくが子どもに育ててもらっています」

 

Tsutomu Kimoto

グリーフケアの分野においても、遺族としての想いを発信している

NPOの設立と父子家庭の実情を発信

「父子家庭を支えるNPOを立ち上げては?」

と、友人から提案された。母子家庭に比べると、父子家庭の話題はあまり聞こえてこない。父子家庭の場合、仕事を続けるために実家に子どもを預けたり、再婚したりするケースが多いことや、それゆえに収入が安定しているケースが多いなどの事情から、父子家庭特有の困難さが見えにくくなっている。しかし、努さんのように1から家事・育児を学んで、奮闘するケースも一定数はあるはず…。努さんは、死別後、1番困った家事・育児といった「いえのこと」を学ぶ「NPO法人京都いえのこと勉強会」を立ち上げた。そして、自分の体験を講演会という形で発信しはじめた。

 

「当時、死別父子が父子家庭をテーマにしたNPO法人を設立したのは日本で2例目ということもあり、マスメディアからも注目されました。会では、お父さん対象の料理・家事の教室や、勉強会を開催しています。父子家庭の実情や課題について語れる人は少ないということで、いろいろな場所で講演会もさせてもらっています。学会の学術集会や、大学のグリーフケア研究会で登壇したことも。保険会社への提案や、保護者同士の対話の場所づくりや、死別当事者を集めたグリーフケア、テレビ討論会への出演などなど、考えてもみなかったスケールへ、活動は広がっていきました。書き続けていたブログを元にして、本の出版まで実現しました。ぼくの頭の中では、その本がドラマになり、映画になり、海外の映画祭にまでいけちゃうのでは?という妄想が広がっています(笑)」

 

しかし、そのNPOは三男が高校を卒業するまで、あと3年で解散すると決めている。子どもたちはあしなが奨学生となって、学業に、スポーツに励んでいる。三男が成人になった時が、ひとつの区切りと考えている。

「やはり、リアリティがなくては発信できないと思うんです。当事者でいることが必要不可欠かと。リアリティが無くなったら、終わりにします。その後ですか?その後は、映画になって印税が入れば…と夢の続きですが、父子家庭の大学生を預かるシェアハウスを、京都に作りたいと考えているんです。1階は、地域のお母さんが運営するカフェがあるといいなぁ。口に出さないと実現しないので(笑)こうして公言することにしています。そして個人的には、また、アメリカに野球を観に行きたい!それが、子育てが終わった時のぼくの夢です」

 

「伴侶を亡くされたばかりの方には伝わらないかもしれないけれど」と、前置きしたうえで、努さんはこう提案する。

「ひとりひとりが、自分のドラマを生きています。自分のドラマを楽しんで生きるのがいいのでは?自分のドラマの脇役が子どもで、子どものドラマの脇役が自分。どうせ生きるんやったら、楽しいのが絶対いいです。ぼくは、子どものころから変わらず、ずっと生きていることが面白いです」

 

社長を辞めて1年間、貯金を切り崩しながら専業主夫をした。その後は、パートも経験。現在は企業主導型保育所を経営する会社の役員に就任している。そこで担当してるのは、女性の就労支援だ。全て主夫としてやってきた経験が活きている。

 

コロナ禍もあって、講演活動はままならない状態が続く。だが、努さんの人生は、野球に例えたらまだ7回の表あたり。攻守、攻守を繰り返す試合は、いつも子ども3人と、妻と自分の5人で戦っている。そして、クライマックスはまだまだこれから!と、努さんは肩を回して出番に備える。

 

(インタビュー 田上菜奈)

 

 

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