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保護者インタビューまなざし「妻でも母でも嫁でもない、自分ひとりの幸せ」

保護者インタビューまなざし#33

「妻でも母でも嫁でもない、自分ひとりの幸せ」

ゆうこさん(50代 中国地方)

あしなが育英会の奨学金で大学に進学を果たした次男が、来年の春、卒業して社会人になる。奮闘してきた3人の子育ても、いよいよ終わる時がきた。夫が急逝して、もうすぐ5年。現在の心境を語っていただいた。 

「すごい幸せ」と言っていた夜、夫が急逝 

2020年の正月。すでに社会人となっていた長男、長女が揃って帰省し、ゆうこさんの家は賑やかだった。高校生の次男を加えて家族5人全員が、久しぶりに顔を合わせた。 
「年末年始と、家族みんなで過ごしていました。元日にお節料理を食べて、お酒を飲んで。成長した子どもたちを前に、夫は本当に嬉しそうで『幸せだ、幸せだ』と口にしていました」
家族水入らずの正月が急変したのは夜だった。
「その晩、私が近くにある義父母の家へ後片付けに行っている時に、次男が血相を変えて駆け込んできてました。『お父さんがお風呂で溺れた!』と言いました。何ごとかと驚いて家に戻ると、長男が風呂から引きあげた夫に心臓マッサージをしているところでした」 
 
それは、夢のように現実味のない光景だった。夫は健康で、病気の予兆ひとつなかった。つい、ほんのさっきまで、皆で話をして機嫌よく嬉しそうにしていた。その夫が、今、目の前に力なく横たわっている。 
 
「救急車を待つ間、家族が交代で心臓マッサージを続けました。しかし、夫の意識は戻りませんでした。 救急搬送された病院は、その時期、夫が仕事で関わっていた病院で、事務局には夫の席もありました。だから、先生方も看護師さんも、皆さん夫をよく知っていました。まさかその先生方から夫の死を告げられることになろうとは…」 
 
唐突に亡くなった夫…。 
どう、受け止めたらいいのか。 
せめてもの救いは、『幸せだ』と言っていたその日に亡くなったことだろうか。家族全員が揃っている中で、見守られて亡くなったことだろうか。しかし、実際にはそんなことすら考える余裕もなく、全てが、転がるようなスピードで展開していった。 
 
「その日、1年の始まりの日ということもあって、夫は、高校2年生の次男と進路の話をしていました。学校の推薦で東京の私立大学へ行きたいという次男に、『学費はお父さん頑張るから、任せておけ』といい、ふたりは固い約束を交わしたのです。そこから何時間も経たないうちに父親の死を目の当たりにした次男は、『すぐに働く』といって泣いていました」 
 
夫の死を知った関係者や、子どもたちの友人も駆けつけてくれた。そこでも次男は、高校の友人に、「父が死んだ。俺は働く」と話していた。 
「その時、友達のひとりが『お前に今出来ることは何なんだ?お前ができることは、勉強しかないんじゃないか?』と、諭してくれました。次男は、その時に覚悟を決めたのだと思います。お通夜の2日間にも、勉強道具一式を持ち込んで、法要の合間にひとりで勉強をしていました。次男は、もうその時点で、後ろを振り返らず自分の進む先を見つめていました。すごい勢いで勉強を始めたのです」 
 
その1年後に、次男は東京の国立大学に合格した。学費の負担を考えて、私立大学の推薦は受けずに、自力で国立大学の合格を勝ち取った。あしなが育英会の奨学生となって、東京にあるあしなが育英会の学生寮、あしなが心塾に入塾した。 


YokoOmiyamairi次男のお宮参り

元気で、行動力がある、太鼓の名手 

夫は、東京の大学で電気工学を学び、東京の大手企業に就職した。30歳になる手前で転職して、地元に戻った。ゆうこさんとお見合いをしたときは、公務員として役所に勤めていた。 
 
「とても行動力のある人で、明るくて、人付き合いが上手な人でした。一生懸命、仕事をしていました。役所でも電気関係の仕事をしていました。イベントの企画や運営が上手な人で、そういう時にはパッパッパッパッと、段取りよく動いて。いつもニコニコしていましたよ」 
 
水泳の選手だった父親から水泳と身体の鍛錬を仕込まれていた夫は、スポーツも得意だった。冷静さと情熱を持ち合わせた人だった。家族のためによく刺身などの料理を作ってくれた。優しさも、厳しさもある、愛情深い人だった。 
 
「親をとても大事にしていたし、子どもも大事にしていました。3人の子どもたちを、とても可愛がっていました。自分が英語で挫折した苦い経験があったせいか、子どもたちには英語をマスターして欲しいという気持ちが強かったように思います。長男と長女はアメリカに、次男はオーストラリアにホームステイさせたり、家族旅行で海外に行ったりしました。子どもたちが英語にふれる機会を作ろうと、頑張ってくれたのだと思います。普段は淡々としていますけれど、子どもたちがこうしたい…と夢を伝えると、『行ってこい、行ってこい』と背中を押して、自信が持てるよう励ましていました」 
 
2000年頃から、夫は地元に残る伝統的な和太鼓の復活に情熱を注いだ。若手で和太鼓チームを作り、祭りや正月、盆踊りの時などに太鼓を披露するようになった。 
「チームで揃いの法被(はっぴ)を作って、鉢巻をして、大張り切りで太鼓を叩いていました。週末は、練習やイベントに出かけていって、どんどんのめり込んでいくのがわかりました(笑)。そのうち、プロの太鼓奏者のコンサートを企画したり、プロの方にオリジナルの楽曲を作ってもらったりして、明けても暮れても太鼓という感じになりました。そうなると、もう家の中は大変。私は、3人の子どもたちでてんてこ舞いだというのに、『太鼓叩くと、元気になる!』と出かけて行っては、スカーっとした顔で帰ってくるので、しゃくにさわることもありました(笑)。家族は留守番ばかりでしたからね。でも、本人は本当に楽しそうで」 
 
その和太鼓仲間は、夫の葬儀でも太鼓を叩いてくれた。霊柩車を、夫が大好きだった和太鼓の演奏で見送り、感動的な葬儀となった。 
 
仕事も趣味も充実して、健康そのものと思っていた夫の急死…。ゆうこさんは、なかなかその現実を受け入れられなかった。夫が寄稿した機関紙や、遺品を整理していると、涙があふれてきた。 
「涙を見せない次男に、どうして泣かないの?と聞いたことがありました。すると彼は、『お父さんはもう死んだんだよ。死んだ人に心を向けて、揺さぶられて泣いてどうするの?』と言いました。彼はもう、前だけを見ていました。とっても優しい子ですけれど、この子は芯が強いんだな…と思いました」 


YokoTsunami若き日のゆうこさんと夫

「そういうことはよくあることですよ」の衝撃 

葬儀を出し、しばらくは夫の残したものを整理することで精一杯だったが、次男のためにも、就職を考えなくてはいけなかった。運よく、高校の常勤教員の職を得ることができて、その年の4月から働き始めた。 
 
「それでもまだ、慰めてくれる方がいると、シクシク泣いてしまう心理状態でした。着任して、その高校の校長に挨拶をした時に、『最近、夫を亡くした』と伝えました。すると、校長から『そういうことはよくあることですよ。〇〇高校の教頭もそうだったよな?』と言われました。その厳しい言葉を聞いて、顔に水をかけられたような気がしました。衝撃的でした。でも、それがあったから、最初から冷静に仕事と向き合えたと思います」 
 
「よくあること」と言われてすぐは、腹も立ったし、悔しくもあった。しかし、そこではっきりと言われたことは、後々考えると有難かった、とゆうこさんは振り返る。悲しみに足をひっぱられたままでは、仕事に集中できなかったかもしれない、と。 
 
「私は大学で家政科の勉強をしましたが、学校の先生になるとは思っていませんでした。20代で就職した時は、デザインの仕事に夢中で。その後、主婦になり、子育てをし、介護の仕事は少し経験したことがありました。偶然、大学の先輩に会う機会があって、教職に誘われました。同僚も上司も私より年下になりますが、教員になれたことは、やはり嬉しい出来事でした。学生を教える中で、これまでの様々な経験が、今の仕事にもつながっていると感じています。充実しています」 
ゆうこさんは、人生の不思議をかみしめている。

禍福はあざなえる縄の如し 

「夫を失った後、とても有難いと思ったのは、実の姉の存在です。姉は、40歳の時に交通事故で夫を亡くして、3人の子どもをひとりで育てました。義兄が経営していた会社も引き継いで、大変な苦労をしたと思います。その姉が、私の心情を理解してくれて、なにくれとなくフォローしてくれました。同じような経験をした人でないと、なかなか共感は得られないと思います。だからこそ、頼りにできる存在でした」 
 
町を歩いていると、伴侶と一緒の人ばかり目についてしまう。「ゆうこさん、ひとりになっちゃうんですね」と念を押すようなことを言う人もいる…。そんな時、湧いてくるやり場のない気持ちを、姉は受け止めてくれた。 
 
「『お寂しいですね』と言ってくれる方に『いえ、全然』と言ってはいけないよ、夫を亡くしてせいせいしてると思われたらいけないからね、寂しい顔をしていなさい」と、アドバイスをくれる人もいた。 人は、色々なことをいう。しかし、死別は、誰の身にも起こり得ることだ。昨日まで笑っていた人が、今日、悲しみに暮れることがある。昨日まで他人事と思っていた死が、今日、自分事になるということも。ゆうこさんは死別体験をして、初めて分かることがたくさんあるな、と感じた。 
 
「次男が、あしなが奨学生となって、心塾に入りました。そこで奨学生の方たちと出会って、彼自身にもいろいろな気づきがあったようです。『母さん、悲しいんはうちだけじゃないんよ』『震災で親を亡くした人もおったんよ』と、話してくれました。あしなが育英会と出会って、自己憐憫の気持ちを持たない人間になってくれたのが嬉しかったです。私も、次男の話や、自分の経験から教えられることが多くあります」 
 
「禍福はあざなえる縄の如し。喜びも、悲しみも、織り込まれているのが人生。 苦しまないと分からないものですね。人は苦しまないと成長しないです」

妻でも、母でも、嫁でもない自分 

夫が亡くなったことで、夫の実家とは距離ができた。「嫁は家族のために家にいなくてはならない」という暗黙のルールに縛られていたが、夫の死が転機となって、仕事を得ることができた。自分で稼ぐという喜びを再び手に入れたのは、ゆうこさんにとって大きな意味があった。就職して4年目。少しずつワーク・ライフ・バランスも取れるようになってきた。新たな、第3の人生が開けていくのを感じている。 
 
「今年になって、ギターを始めました。なかなか上手に弾けないのですが、頭を空っぽにして、没頭する時間がとても楽しいです。働いて、定時になったら帰って、ちょこちょこっと美味しいものを食べて、薄い薄いお湯割りのお酒を頂いて、ギターを弾いて、早く寝よう…というのが最高の1日です」 
 
今が、1番、「人生を生きている」という気がする、とゆうこさんは言う。これまでの人生においては、「私は誰かのために生きているのか?」と自問自答することがあった。夫に対しては妻として、子どもに対しては母として、義父母に対しては嫁としての役割を生きていた。 
「でも、今は、自分の人生を生きている気がしています。家に帰ってきて、話す相手がいなくても、すごく楽しい。自分で自分の責任は取らなければいけないけれど、誰かの庇護の元に隠れることもできないけれど、生きたいように生きれるって、とっても幸せなことだなと思うのです。子どものことは、もう子どもたちを信頼して任せている。義父母も夫も、いなくなってしまった。私は、今、私の人生を生きているのですよ」 
 
静謐(せいひつ)の喜び。今日も、ひとり、静かな家の中で、ゆうこさんの心は幸せでいっぱいだ。

Tsunami在りし日の夫


(インタビュー田上菜奈)

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や、保護者向け講演会の運営などに携わる。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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