保護者インタビュー「旅に彩られた人生」
保護者インタビュー まなざし#15
旅に彩られた人生
みゆきさん(50代 信州エリア)
屈強で、元気が取り柄だった夫が、突然、39歳という若さで他界した。愛情とユーモアにあふれた夫は、最後までいつも通りの楽しい人だった。「病気ではありましたけれど、死んでしまって、本人が一番びっくりしたと思います」と語るみゆきさん。夫との思い出の地で、子育てと仕事に奮闘してきた。そんな、母子を癒してくれたものとは….。
がんの宣告 でも、最後まで働いた夫
夫のがんがみつかったのは、2007年の5月。すでに、大腸がんが肝臓に転移した状態だった。冬ごろから、「胃のあたりがムカムカするんだ」といいながら、なかなか病院に行けなかった。春になって、胃に大きなしこりがあるように感じて受診したところ、胃ではなく、肝臓にがんがみつかった。すぐに検査入院となった。
「どうも俺、がんらしいよ」
そう夫が言ったとき、みゆきさんは、
「また、冗談いって。びっくりさせようと思っているんでしょう」
と、とっさに返した。夫は冗談をいうのが好きな人だった。しかし、
「いや、本当だ」
と言う。元気が取り柄のような夫がまさか?と、みゆきさんは信じられない気持ちだった。
翌日、故郷から両親も呼び出され、みゆきさんと共に病院で医師からの説明を聞いた。
「進行が早く、ひどい状態です。あと、半年もたないと思われます」
思いもかけない余命宣告だった。夫はまだ、34歳という若さだ。みゆきさんも、両親も、現実のこととは思えなかった。
本人に余命宣告を伝えるべきか否か、と聞かれたとき、両親は告げるべきだと言った。しかし、みゆきさんは、
「言いたくありません。言ったら、多分、ダメになります」
と答えた。見た目は強い、男らしい男だったが、内面は繊細な心の持ち主であることを、みゆきさんはよく分かっていた。夫は、自分のことを自嘲気味に「ガラスのハート」と言っていたが、本当にその通りだと感じていた。最終的に医師は、伴侶の意見を採用するとした。
「その時点では、翌年の娘の小学校の入学式を見られるか分かりませんっていう話でした。そこから5年、生きることができたのは、本当に夫の強さだったと思います。亡くなる1年くらい前に、『もし、俺あと何年っていわれたら、こんなに元気でいられないよね?余命宣告なんて受けたら、やっていられない』と口にしたことがありました。自分の選択が正しかったのかは、いまだにわかりません。すべてを知ったうえで、どん底からがんを克服したっていう方の話も読んだりしました。でも、夫の気持ちになって考えたときに、言ってはいけないなと思いました」
夫は、抗がん治療を受けながら仕事を続けた。まだ幼かった娘にも、父親ががんということを伝えずにいた。みゆきさんも夫も、治すということしか頭になかった。
「余命宣告を受けましたけれど、夫は筋肉質で力のある人だったので、そういうものも克服していくだろうと思っていました。私はどこか、楽観的なところがあるんだと思います」
夫はごく普通に生活をして、子どもにもごく普通に接していた。治療や手術で入院しても、悲壮なところはみじんもなかった。娘は父親のベッドに一緒に寝転んで、本を読んだりしていた。
「2人でそれぞれ本を読んでいるんですけれど、2人並んで全く同じ格好をしていたのを覚えています。ほほえましかったです。娘も、父親の病気は治るものと安心していたと思います」
入院中の夫を励ますために、親子3人の交換日記を回していたこともあった。娘は、「今日は手術だね、早く元気になって帰ってきてね」と書き込んでいた。
亡くなる10日前、夫が自宅で意識を失って救急搬送された。その時も、病院で目を覚ますと、
「あそこのお店のあれが食べたい」
「退院したら、あそこに行きたい」
と、いつものように話していた。しかし、医師からすると、目を覚ましたのが奇跡と思えるほど、容態は悪化していた。
「会いたい人がいたら、今のうちに声をかけておいてください」
と告げられ、「本当にそこまで悪いのか?」と、みゆきさんはいぶかしく思うほど、夫はいつも通りの夫だった。
「本人も、全く亡くなる実感はなかったと思います。時間が無いことを感じていたら、身辺の整理をしたり、遺言を残したりしたかもしれません。でも、本当に亡くなる直前まで、普通の他愛ない会話をしていたのです。亡くなるなんて、思ってもいませんでした。娘もびっくりしていました。でも、亡くなって、本人が一番びっくりしたと思います」
体格のいい夫は、最後まで元気に見えた。最後まで、配達の仕事をしていた。享年39歳。夫が亡くなったことは、みゆきさんにとって、現実味の無い出来事のように思えた。
旅によって彩られた人生
みゆきさんは、若いころから信州が好きで、仕事に疲れた時などに、よく、ひとりで訪れた。
「雄大な山々の景色にあこがれて、通うようになりました。いつか、住みたいなと思っていました」
夫が信州に転勤になったのを機に、仕事を辞めて、あこがれの地へ移住した。
「当時私は航空会社に勤めていて、飛行機の乗務は大好きな仕事でした。でも、都会の生活は自分には合っていないと感じていました。もともと地方出身なので、自然に囲まれた暮らしが恋しかったのかもしれません」
夫との出会いも、飛行機の中だった。グァムへ行く便に乗務していたみゆきさんに、夫は最初から好意を寄せていたようだ。
「夫は、社員旅行でグァムを訪れていました。たまたま、その飛行機に乗務していたのです。宿泊先のホテルで『スチュワーデスさんですよね』と、声をかけてくれ、その後も何度かすれ違って、その度に声をかけてくれました。乗客の方と同じホテルに泊まっても、そんなに何度も会うことはありませんでしたから、驚きました。私は1日早く帰国しましたが、まだ夜も明けない時間にロビーに見送りに来てくれました」
その時に、「一緒に写真を撮ってください」と言われて、撮った1枚の写真が、生涯を伴に歩んだ2人にとって、最初の記念写真となった。
帰国してからも、交流は続いた。住んでいる場所は離れていたが、乗務でその土地を訪れる度に、空港へ会いにきてくれた。
「旅は、2人の共通の趣味でした。夫は、バイクに乗って、北海道から沖縄までひとりで行っていました。最北端とか、最南端とかが好きだったみたいです。2人になってからも、一緒にいろいろなところへ行きました。バイクの代わりに車で、日本中を回りました。北海道にも2~3回行きました。お互いまだ20代。簡単なバーナーとか調理道具を積んで、その土地、土地で新鮮な食材を買って、ごはん作って、コーヒー淹れて。道の駅を巡ったり、温泉を巡ったりして、車中泊で旅を続けました。何でもない場所に停車して飲むコーヒーが、ものすごく美味しかったのを覚えています」
日本海を、ずっと車で移動して九州まで行ったこともある。東北にも、四国にも行った。四国の寺を3か所だけ巡ったが、いつか88か所全部のお遍路をしたいね、と夢を語り合った。
「娘が生まれてからも、たくさん一緒に旅をしました。病気が分かった後も、お医者さんの勧めもあって、北海道へ3人で行きました。放射線治療で有名な病院を頼って、九州へも2回行きました。指宿、桜島と、車で海岸線を巡ったことは娘もよく覚えているようです」
素晴らしい景色。潮のにおい。山からの風。家族とずっと一緒の時間。
旅が、病気の夫に生きる力を授けてくれた。日本中に、夫との思い出がたくさんある。そして、1番思い出がつまった信州に、今もみゆきさんは暮らしている。
フルートの音色に癒されて
「娘は、小さなころから、フルートの音色にあこがれて、フルートを習いたいと言っていました。でも、娘が6歳のころから、我が家は夫の治療が生活の中心にありましたし、費用もかかっていたので、習わせてあげることができませんでした。小学5年生になって、小学校の吹奏楽部に入れたことで、娘は初めてフルートを手にする機会を得ました。初心者には音を出すのが難しいと言われているフルートですが、娘は初めから音を出すことができました。吹奏楽部から借りたフルートを持ち帰って、1回だけ、夫の前で吹きました。そんな娘の姿を見て、夫はとても嬉しそうでした」
大好きだった父親を失ったのと、念願だったフルートを手にした時期が重なり、娘はフルートの練習に没頭していった。
「夫が亡くなって、娘と2人で、1度だけ大泣きしました。その後、彼女はフルートに意識を向けて、夢中で吹いていました。寂しさを何かに没頭することで紛らわしていたのかもしれません。悲しそうにしている姿を見たことがありませんでした」
娘はそれ以降、父親のことを話題にすることも、思い出して泣くこともなかった。心配したみゆきさんは、娘を喫茶店に連れていって、心の内を聞こうと試みたことがあった。
「何か、心にためているものは無い?あるなら話していいんだよ、って伝えましたが、面と向かっては、何も話してくれませんでした。今思うと、そういうことは、親よりも、かえって第三者の方が話しやすかったかもしれませんね」
娘は音楽科がある高校に進学し、片道2時間かけて通学した。帰宅後は、フルートのレッスンに通った。全てを忘れて、フルートに力を注ぐ日々。みゆきさんも、車で送り迎えをして、娘を支えた。慌ただしい中、いつも楽器の音色に癒されていたという。
「自分は音符も読めないのですが、音楽がある家で過ごすことがずっと夢でした。娘が反抗期になってブスッとしているときでさえも、フルートの演奏を聴いていると気持ちが落ち着きました。音楽が家に溢れていると、不思議なことに、反抗されても、口をきいてくれなくても、『そんな時もあるよね』って寛容に受け止められたんです(笑)」
娘は、1年浪人して、希望していた大学の音楽学科に入学した。
「浪人しているときに、九州にいる母が、街頭で募金活動していた学生からパンフレットをもらって、あしなが育英会のことを知りました。すぐに、私たちに教えてくれ、奨学金に応募しました。心塾があるお陰で、東京の大学に進学することができたのです。そう思うと、浪人した1年間は、とても意味がありましたね」
昨年、娘は新聞社のインタビュー記事で取り上げられたが、その中で、こう語っている。
『小学5年生になり、(父親)の容態は悪化。(中略)5月に39歳で息を引き取った。(自分は)父の不在を考えないようにした。亡くなったことを受け入れるのが難しく、心にふたをした。大学にすすむため浪人生活を送っていた昨年、1人で過ごす時間が増える中で、父の死に正面から向き合うと決め、思い出を振り返った。「本当にいないんだな」喪失感の大きさに気づかされて泣いた。最近、ようやく「新聞を読む姿が父に似ていると言われる」と笑えるようになった』(毎日新聞)
「これを読んで、あぁ、泣けてよかったって思いました。浪人の1年間は、娘にとって、とても意味のある、大切な時間だったと知りました」
今、娘はプロのフルート奏者を目指して、レッスンを重ねている。
自分探しの旅の途中
娘を東京に送り出してから、みゆきさんは1人になった。
「夫は、『家族は自分が守る』という強い決意を持っていましたから、私は専業主婦として、家族を支えることに徹しました。本当は、夫が病気の時、働いて力になりたいと思いました。でも、その時は夫の気持ちを大事にしました。夫が亡くなってから働きに出て、今の仕事も、最初は専門用語が全然分からない…というところから始めました。でも、働くことが大好きです」
娘の送り迎えもなくなって、自由な時間が増えた。今は、仕事以外にもやりたいことはたくさんある。
「ステンドグラスとか、皿の絵付けとかもやってみたいです。美術館巡りもやってみたい。でも、1番は、娘と、夫の思い出の地を巡りたいです。夫はお寺の御朱印を集めるのが趣味だったので、御朱印帳がいくつも残っています。それを見ると、いつどこを巡ったか分かりますから、ひとつひとつ娘と一緒に辿っていきたいです」
旅の仕事に就き、旅で夫と出合い、旅によって生かされて、旅で絆が強まった。みゆきさんの旅は、これからも続く。
(インタビュー 田上菜奈)
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