笑顔がつないだ命のリレー 70年の人生を通じて学んだ「共育」の力
あしながさんインタビュー
吉忠さん(70歳 埼玉県)
吉忠さんは、学生時代からあしなが学生募金に寄付を続けてくださっている、息の長い「あしながさん」のおひとりだ。2016年からは、定期的なご寄付で国内遺児の奨学金事業を支えてくださっている。長年、病気や障がいをかかえた子どもたちへの特別支援教育に尽力されてきた。これまでのあゆみと、教育への想いをお話いただいた。
■本記事は、機関紙『NEWあしながファミリー』188号に掲載された記事に、記載できなかった詳細なストーリーを加えて書き直したものです。
忘れられない母の涙
「私は、4歳の時に、交通事故で父を亡くしました。私を乗せた父の自転車が走っていたとき、2人に気づかず後進してきた工事用車両にはねられてしまったのです」
吉忠さんは、事故の勢いで飛ばされて、近くの田んぼに着地し軽傷で済んだが、父は即死だった。
「母が、『お父さんが吉忠を、命をかけて守ってくれたんだよ。いつも見守ってくれているんだよ』と、言ったのを、今でも覚えています」
母はそれまで働いたことがなかったが、吉忠さんを養うために、道路工事の現場で働き始めた。
「私は泣き虫で、保育園に預けられても、やだ、やだと泣いてばかりいました。母が恋しくて、近所のお兄ちゃんにお願いして、工事現場で働く母のところに連れて行ってもらったことがありました。その時、いつもは怒ることのない優しい母が、『何しに来たんだ』って言って怒ったんです。そして、家に帰ってから『見に来て欲しくなかった』といって涙を流しました」
それは、吉忠さんが生涯でただ一度だけ見た、母の涙だった。
2023年と2024年にあしなが育英会が発行した、2種類の『遺児のお母さん作文集(※)』を読んだ吉忠さんは、改めてあの頃の母を思い出し、当時の母の心境を想像することができた。「母が、自分を育てながら抱えていた思いを垣間見るようで、読んでいて涙がとまりませんでした」
母は、吉忠さんが小学1年生の時に再婚した。新しい父とともに、兄が5人(うち2人はすでに独立)と、同じ年の子が1人、家族に加わった。母と2人きりの静かな暮らしから大家族の暮らしへと変わり、吉忠さんは遠慮がちになった。次第に自分の言葉を飲み込むようになり、主張をしなくなっていった。我慢が多い少年時代を過ごしたと感じている。
「それでも、自分は1度だけ、わがままを言ったことがあります。教師になりたくて、大学に進学したい、と両親に伝えた時です。家は決して裕福ではなく、年上の兄弟はみな、中学、高校を卒業すると就職していました。それでも義父は、『自分の好きなようにしたらいい』と言ってくれました」
ずっと我慢と遠慮で委縮しがちだった自分の背中を押してくれた両親。こみ上げてきた喜びを、吉忠さんは今でも鮮明に思い出すことができる。
※『星になったあなたへ』(2023年)、『いつか逢う日まで』(2024年)
障がいがある人とともに生きる
高校生の頃、吉忠さんは、高齢者施設でのボランティアをしていた。そこで、ある盲目の男性と出会い、交流を重ねていった。それまで、障がいをもつ人との関わりがほとんどなかった吉忠さんにとって、その男性との交流は特別な意味があった。
漠然と教師になりたいと思っていた吉忠さんだったが、「自分は将来、障がいや病気を持つ人の教師になりたい」と、考えるようになった。そう目標が定まると、勉強にも身が入り、大学への進学を果たすことができた。その後、吉忠さんは、43年にわたる長い教師人生を、病気や障がいを持つ子どもたちとともに過ごした。
「最初の3年は病弱養護学校で、40年を特別支援学級や特別支援学校で教えました。教師時代、うまくいかないことは山ほどありました。最初に赴任した病弱養護学校では、在籍する100名ほどの児童・生徒のうち、半分ほどが筋ジストロフィーという病気を抱えた子どもたちでした」
クラスにいた、児童のひとりが放った一言は、今でも強烈な衝撃とともに吉忠さんの心に残っている。
「もう、学校に行きたくない。どうせ勉強したって、すぐに死んじゃうんだから。学校に行って勉強してもしょうがない」
筋ジストロフィーには様々な症状があるが、共通しているのは、徐々に筋力を失うということだ。自力で歩行ができなくなり、身体中の筋力が弱っていく。子どものころに発症すると、15歳くらいで亡くなる人も少なくなかった。大人から告げられなくても、同じ病室で過ごしていた友だちが、ひとり、またひとりといなくなる現実を、子どもたちは目の当たりにしている。「勉強してもしょうがない」と言った子に、吉忠さんはかける言葉が見つからなかった。ただ、寄り添うだけで精一杯。
「そんな中でも、子どもたちの笑顔は、自分の原動力になりました。子どもが笑顔でいるために、自分も笑顔で接しました。子どもを信じて、いい関係性を作る。子どもたちの笑顔はいいですね。大好きです」
「教育」は「共育」
長く教師をしてきた吉忠さんは、「教育」は「共育」だという。
「自分自身は、福島県で生まれ、宮城県の大学に進学し、埼玉県で働いてきました。生まれ故郷を出て、多くの人に出逢い、広く社会と関わるうちに、教師は『教育』をする立場だけれども、自分も共に育ててもらっている、『共育』だと考えるようになりました」
病気や障がいを持ちながらも、今この瞬間を生き、楽しむ子どもたちと長くかかわってきたからこそ、感じることも多かった。子どもたちによって、自分の成長が促されたと感じる経験もあった。生徒と教師が互いの成長を見守って、互いに育て合った、と考えると「共育」という言葉がぴったりだと思う。
「高校、大学に進学して教育を受けることだけが全てではないです。大人が、子どもによい文化を教えてあげることが教育です。文化を学び、人に触れる。上手く話したり、表現したりできない子でも、大人が笑顔で接して、その子を信じてあげることが大切なところです。」
かがやけ囃子、かがやけ命!
吉忠さんは、65歳前後で、いくつかの病気を患った。その困難をのりこえ、現在は、生活支援事業所で支援員として働いている。そこでは、大好きな太鼓を叩いたり、民族歌舞の「かがやけ囃子」を披露したりする機会がある。
「障がいを持つ仲間たちと一緒に太鼓を叩く時は、『みんな、かがやくものって何か知ってる?太陽もかがやいているけれど、一番かがやいているのは、みんなの命だよ!』って伝えます。沈んだ気持ちで叩くんじゃなくて、思いっきり明るく、自分たちの命が輝くように叩こうよ!って」
「あしなが奨学生のみなさんには、『ひとりじゃないよ』と伝えたいです。お父さん、お母さん、家族はもちろん、私たちあしながさんなど、いつも誰かが君たちのことを考えているよと伝えたい。進学が全てではないけれど、もし、大学に行くという選択肢があるのであれば、ぜひ選んで欲しいと思います。私がそうであったように、みなさんの社会が広くなりますから。これからも、みなさんを応援しています。」
吉忠さんのとびきりの笑顔が、奨学生の背中を押してくれている。今までも、そしてこれからも。
現在働いている生活支援事業所の仲間と
(インタビュー 杉野皓己)