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保護者インタビュー「いつもの声で呼んでほしい」

保護者インタビューまなざし#26

いつもの声で呼んでほしい

京子さん(千葉県 50代)

 

京子さんは、仕事とプライベートでアフリカに関わり、ガーナ人の妻となった。夫と会社を立ち上げて、アフリカと日本の間でビジネスも行った。アフリカの国々相手のビジネスには独特の難しさがあり、翻弄されることも度々あったが、それゆえに京子さんの視野は広がり、価値観も変わっていったという。夫を亡くしてから9年。物静かな京子さんの胸の内にしまわれた、情熱と冒険の物語を聞かせて頂いた。

何年も、その姿を見ていた

京子さんは、ある時、地元のキリスト教教会を訪ねた。そこではイギリス人宣教師による英会話教室が開かれていた。仕事で英語を使うことになった京子さんは、会話力を高めようと通い始めた。

「英会話教室に行くと、いつも教会の敷地を掃除している人がいました。別の日に、たまたま教会の前を通りかかっても、その人はいつもひとりで掃除をしていました。丁寧な仕事ぶりで、偉いなぁって思っていました。それが、後に夫となった人です。何年も彼のそんな姿を見ていました。でも、互いにシャイなので、話しかけるまでに、何年もの月日を要しました」

 

京子さんは仕事でガーナと関わっていたので、その人がガーナ人であると知って驚いた。

「本当にふとしたきっかけで話をしたのですが、ガーナと聞いて親近感を抱きました。落ち着いた、しっかりとした、誠実な人で、友達になるというよりは…尊敬の対象でした」

 

当時、京子さんは2人の子どもを持つシングルマザーだった。生活していくだけで一杯一杯。仕事と、子育てと、家事を回すことで精一杯の毎日だった。

「そんなある時、反抗期に入った長男が、プチ家出をしたのです。彼が立ち寄りそうなところを探し回っていた私を見て、彼が1晩中、一緒に探してくれました。また別の日には、逃げてしまった飼い犬を何日も一緒に探してくれました。途中で『もういいから』と言っても、彼は探し続け、ついに見つけ出してくれました」

 

誠実で優しい彼の姿に、京子さんは少しずつ惹かれていった。出会ってから何年も経ち、ようやく話をするようになって2年ほども経った頃だった。

「ものすごーく真面目な人で。こんな人がそばにいてくれたらなぁって思いました」

chumashi family

次男が誕生して、幸せに満ちた日々

夫とアフリカで人生観が変わった

京子さんは、厳しい家庭に育った。

「私は、ジェンダーギャップの強い家庭で育ったので、女だからこれをしなきゃいけない、あれをしてはいけないという無言のプレッシャーがありました。でも、夫はそんな価値観とは正反対の人で…どんな家事も進んでやってくれました」

食事は京子さんが作り、夫は朝から掃除と洗濯を片づけてくれた。仕事や家事を済ませると聖書を手に取って読み始めるような、敬虔なクリスチャンだった。

「夫は私に何の制限もかけませんでした。友達と出かけるのはもちろん、好きな服、好きな化粧品を買ってもいいんだよ、と言ってくれました。外国ではそれが普通なのかな?とも考えましたが、当時働いていた会社には中東出身の方も多くて、外国人との関わりの中においても、女性が虐げられている現実を見ていました。外国人だから、キリスト教だから、というよりは、彼が育った環境が女性を大切にする環境だったのではないかなと想像しています」

 

夫は、結婚前、リサイクル工場で働きながら、日曜日は奉仕活動を行っていた。教会で集めた食料を、駅の周辺で生活しているホームレスの人々に手渡す活動だ。

「結婚前に一度、日曜日の午後だったのですが、外で待ち合わせをしたことがありました。待てど暮らせど彼は現れず、私は2時間待ちぼうけを食らいました。その後は大喧嘩に発展(笑)でも、後日、何をしていたのか分かってくると、時間を忘れて奉仕活動に打ち込む彼の真面目さ、誠実さを尊敬するようになりました。今やっていることを途中で投げ出したりしないのが、彼でした」

 

結婚後は、夫婦で輸出の会社を立ち上げた。京子さん自身も2回、アフリカへ行く機会があった。

水をふんだんに使える、町を安全に歩ける、といった日本の常識が、アフリカでは特別なことと感じる。

ある日、銀行の中でパソコンのメールをチェックしていたら、「町中でパソコンを出さないで!」と注意された。強盗に遭う確率が高くなるという。また別の日は、目の前でオートバイタクシーが転倒して、後ろに乗っていた客の女性が事故に巻き込まれたのを目撃した。次の瞬間、女性のバッグを誰かがひったくって逃げた。それを追いかけて行く人もいた。正も悪も入り混じったリアルな現世を見る思いだった。

「いい人も悪い人もいるんだなぁって思って眺めていました。日本では、あまりない光景なのではないかと思います」

 

仕事も、京子さん1人では思うように行かず、

「来る、来るって言っている人が全然来なくて、次の日も来なくて、その次の日も来なくて…という状況で、待っていたら2週間の予定だった出張が、2ヶ月になってしまいました。いつ帰れるんだろう?って思いました(笑)」

結局、集金は思うようにできなかった

「なんとかなる」不思議なアフリカン・ビジネス

「輸出の相手がもし欧米だったら、銀行が担保する信用取引ですが、アフリカの場合は少し勝手が違います。先に物を送って、後から回収というケースが多いです。品物を船便で送り、半年ごとに夫がガーナに行って集金していました。当然、取引先が逃げてしまうケースもあるわけです。でも、夫は逃げてしまった人を根気よく探しては回収していました」

 

取引相手も都合が悪くなると、英語ではなく母国語で話して、口裏を合わせてしまう。アフリカの言語が分からない京子さんには分が悪かった。

「タンザニアは女性のお客さんだったこともあり、私が集金に行くことになったのですが、『アフリカにはアフリカのやり方がある』と言われました。最終的には、夫に任せた方が回収できました。夫はアフリカのやり方を分かっていたので、回収率は良くないとしても、ビジネスとしてはちゃんと利益を出していました」

 

夫は、徹底的に支出を抑えていた。京子さんは、最低限に必要なものは、お金をかけてでも準備したいと思ったが、そこは夫のやり方に従った。たまに回収しそびれたり、ものすごく値引きを迫られたりもしたが、夫の努力で、最終的には赤字にはならなかった。

「そこに至るまでには、相当に熱量のこもった交渉をするのです。それは、日本人にはできないと思いました。音を上げてしまいそうな交渉を、夫は辛抱強くやっていました。双方、生活がかかっているという感じで、猛烈な交渉をしていました」

 

家族や親戚も関わってビジネスは展開していた。夫が集金に行くまでの間に、ある程度はガーナの家族が集金して、銀行に預けてくれていた。夫は、ガーナに支社を設立する予定で、銀行口座も開設していた。

「ガーナの銀行に外貨準備金が十分に無いと、その日はいくらまでしか送れない、残りは明日になるよ、なんていうこともありました。タンザニアでは、両替業のお店によって、レートが違ったりもしました」

とにかく、日本とは勝手の違うアフリカン・ビジネスだった。

「それでも最後は、なんとかなるっていう、不思議な感じでした」

kyoko's husband

頼りになった最愛の夫

夫を突然亡くしパニックに

夫との間に次男が生まれて4年が経った頃、家族で初めてガーナを訪れる計画を立てた。クリスチャンにとって重要なクリスマスのお祝いに併せて、家族でガーナを訪ねる計画だった。夏からパスポートやビザの取得、黄熱病の予防接種など、一大イベントに向けての準備をしていた。結婚して、まだ一度も訪れたことが無かった遠い祖国。夫が、その日をどれだけ心待ちにしていたか、京子さんもよく分かっていた。

 

しかし、その旅行を前にして、夫は突然この世を去った。41歳の誕生日直後のことだった。

「当時4歳だった息子は、夫の腕枕で寝ていました。いつでも一番に起きる夫はあの日、私より遅くまで寝ていて…そして起きることはありませんでした」

 

心不全の診断。

しかし、はっきりとした死因は分からなかった。

「みんなパニックでした。夫の名前を叫んで。娘は、パニックになりつつも、救急車を呼ぶよう、私に指示してくれましたから、まだ冷静だったかもしれません。無我夢中で救急搬送しました。幼い次男がどうしていたか、その時は正直、気が回りませんでした」

当時、大学生だった長男も、後から近所の人に車で病院に連れてきてもらい、家族は病院で揃って、亡き夫と対面した。あまりに突然の出来事で、京子さんは現実を受け止めるのが精一杯だった。

 

ガーナに火葬の習慣はない。夫の両親は既に他界していたので、長兄から火葬の許可を取る必要があった。

「言葉ができる友人に間に入ってもらって、なんとか葬儀の日までに書面を手配してもらいました。日本で火葬することはできましたが、葬式に来ることが出来たのは、ガーナ人の従妹ひとりだけ…。従妹はヨーロッパ在住のため、お骨を渡すことができませんでした。お骨を持ってガーナに行こうと思っていますが、まだ実現していません」

国は貧しく、家族は世界中に散って生活している。言葉の壁もあり、何をするにも一筋縄ではいかない現実がある。

 

しかし、子ども3人を抱えて、京子さんには悲しみに暮れる余裕はなかった。

これからの生活、子どもの教育も心配だったが、京子さんの心配の多くは、夫と営んでいた会社のことだった。

「ここで事業を辞める、と口にしてしまったら、送ったばかりの品物の集金ができないことは必至でした。こちらも、そのお金を回収できなくなったら大変なことになります。実際、バックボーンを失った私につけ込もうとしたのか、トラブルが多発しました。夫が亡くなったのを知って、寄ってくる新しい客もいました。どうも、現地の事情に不慣れな私をだまして、自分たちの都合の良いように持っていこうという感じがして、怖くなりました。外国人ばかりか日本人も集まってきました。私も上手く説明できないので『取引しなくていいから帰ってくれ』というやり取りを何度もしました」

 

心細さの裏返しから、京子さんは今までになく強気になった。

夫と事業を始めたばかりの頃、人を疑わなかった京子さん夫妻は、いきなり大金をだまし取られた経験をしている。銀行から借り入れたお金をそっくり持っていかれたことは、手痛い教訓となった。その時に、夫以外の人は信用してはいけないと肝に銘じた。

 

だから、廃業は京子さんひとりで決めた。

 

「廃業を告知すると集金すらできない…というジレンマがあったので、少しずつ取引先を絞っていって、事業を縮小し、1年半かけて廃業という形にもっていきました。神経を使う、大変な時期でした」

同情はつらい。でも、共感は必要

無事に事業を畳むことができた京子さんは、地元のグリーフ(死別悲嘆)サポート団体とつながった。

「そこで、同じように夫を亡くした人たちとつながることができ、私は一息つけました。でも、そこには小学生の息子のためのプログラムはありませんでした。息子は自分から悲しみを表現することはありませんでしたが、逆にそれは困ったことだなと思って、子ども向けのケアプログラムを探しました。そして、あしながレインボーハウスに辿り着いたのです。千葉県からだと片道3時間はかかりますが、参加すると息子が『楽しかった!また行きたい』と言うので、出来る限り参加しようと思いました」

 

コロナ禍で楽しみにしていたキャンプなどは制限されてしまったが、ケアプログラムの中では、親子とも安心して本音で話せる。そういう場所は決して多くない。

「何年たっても、ちょっとした悩みをグチる相手って、なかなか見つけられないものです。ちょっと吐き出すと、すごく楽になるのです。子どもの年齢が上がると、また違う悩みも出てきます。レインボーハウスに来て、同じ年頃の子どもを持つ親同士、あるいは少し先輩の方々と話すと、気持ちが楽になります」

 

「死別直後は、お父さんが一緒の家族連れを見るだけで、気持ちが揺れました。子どもを通してのママ友だと、同情されているように感じることもあって、それがすごくつらかったです。勿論、お相手に悪気はないのですが、互いにどう話していいのか分からず、遠慮がちになりました。同情されるのは嫌。でも、レインボーハウスで互いに共感するのは、とても必要と感じました。レインボーハウスのスタッフは、勉強なさっているので、心に刺さらない対応をしてくださる…。すごく、必要な場所だと思います」

おひとり様をどう生きるか

次男は夫によく似ている。肌の色は若干明るいが、顔のパーツや足の指を見ると、そっくりだと思う。

「瓜二つだなと思うと、ウルってきちゃいます。息子は、父親のことを『覚えている』といいますが、死別した時4歳ですから、写真で思い出をつないでいるのかもしれません。夫は、大抵のことは肯定して、受け入れてくれました。そういうところが好きでした。子どもに対しても同じで、『ダメ』ということは、滅多にありませんでした。危険なことに対してはとても厳しくしつけていましたが、それ以外は寛容に受け止めてくれました」

 

その最愛の夫が他界して9年。子どもたちは、それぞれ中学生、社会人になって、少しずつ自立に向かっている。

「最近、将来は『おひとり様』になるから、どうしようかなって時々考えます。もともと、友達とランチをする頻度は低い方。夫と死別してからは、その回数も減りました。最近は、時々ひとりでカフェに行ってお昼を食べたりして、『ひとり映画』もよく行くようになりました。これでいいのかな…と思ったり、逆に、互いに元気なうちに、今からでも友達と会った方がいいのかな…と思ったり」

 

夫との事業を畳んだ後は、介護の仕事をしている。そこで働いていると、「死ぬときってひとりだな」と実感することがある。

「死ぬ前の段階であっても、例えば連れ合いのどちらかが施設に入る時など、入る方も、残る方もおひとり様生活の準備をします。色々な方を見てきました。死別していても、いなくても、いつかはひとりになるから、どうひとりを生きるか、考えなくてはいけない問題だと思います」

 

レインボーハウスのプログラム参加者と近況を話し合うと、

「ひとり旅行」

「ひとりコンサート」

「ひとり焼き肉」

といった話題が出るので、京子さんもそれらにチャレンジしている。

「話をしてくれた彼女くらい楽しめたらいいなって思います。長男が社会人になり家を出たときに、空の巣症候群になりました。それはやはり、いいことではないので」

 

夫を思い出すと、すぐ心の中で「会いたいな」と言ってしまう。彼がいつも近くに居てくれる気もするし、神様のところから一緒に見ていてくれる気もする。彼の優しい呼びかけが聞こえてくるように思うこともある。

「もし、今夫と再会できたら?そうですね…何も言わないで、何も無かったかのように生活したいです。七夕やクリスマスに願い事をするときは、『会いたい』と願います。もしも会えたら、夫は、私をいつものように、いつもの声で『ケイ』って呼んでくれると思います」

chumashi family

 

あしながレインボーハウスと、ケアプログラムについてはこちらをご覧ください。

(インタビュー 田上菜奈)

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や心のケアプログラムの保護者チームの運営に携わっている。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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