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保護者インタビュー「私の命を半分あげたい」

保護者インタビューまなざし#24 「私の命を半分あげたい」

滝沢美紀子さん(40代 神奈川県)

 

美紀子さんの夫は、長女が小学1年生になった年の5月に他界した。夫は高校教師で、美紀子さんの恩師でもあった。いつも美紀子さんを優しく見守る、一番の理解者であった夫を亡くして9年。大きな喪失感を美紀子さん親子がどのように乗り越えてきたか、話をうかがった。

病気の宣告と1年4ヶ月の闘病生活

夫の病気に気づいたのは、2013年の1月だった。前の年の年末から体調を崩していた夫は、風邪薬を処方されていたが、服用してもそれほどの効果が見られなかった。職場の学校の3学期が始まると、校舎の2階から4階へ行くだけで息があがるようになったので、3連休前の金曜日に早退をして、近所のクリニックで検査を受けた。ずっと微熱が続いていた。

「その頃、テレビタレントさんが結核になったという報道があって、もしや結核では?と心配して検査を受けたのです」

 

翌日、土曜日の朝9時、検査を受けたクリニックの営業が始まると同時に電話があり、「すぐ来てください」と夫が呼び出された。30分ほどすると「奥さんも来てください」と電話があった。美紀子さんの心は少しざわついた。

「幼稚園児だった娘と一緒に、自転車で病院へ行きました。タイル張りの長椅子がある、小さな町のクリニックです。そこで、『白血病』と告げられました。白血病という言葉は、ドラマの世界だけのものかと思っていたので、宣告されたときは、本当に…信じられず、時が止まったようでした」

 

クリニックが受け入れ先の病院を探してくれた。3連休の初日ということで、断られ続け、なかなか受け入れ先が決まらなかった。駆けつけた救急隊も一緒に探してくれたが見つからず、昼頃になってようやく国立病院での受け入れが決まった。

「その場で救急車に乗せられて出発しました。夫は、普段通りの様子でしたが、横に寝かされてバイタルを取りながら病院に向かいました。救急車の窓から外を見ていると、だんだん知らない景色になっていって、遠い病院だということが分かりました。土曜日の午後で、着いた病院はとても静かで、スタッフもほとんどいませんでした」

 

美紀子さんは、心細かった。病院の案内をしてくれる人はおらず、スマートフォンも無かったため、病院について調べることができなかった。院内にはパンフレット一枚、見当たらない。

「医師からは、『今すぐ治療しないと、どうなるか分かりません』と言われました。土曜日の午後だったので、電話を受けた先生が特別に残っていてくれて、すぐに検査を始めた感じでした」

 

突然のことで、入院の準備も、心の準備も無かった。

「私の父に電話をして、病院の名前を告げて、出来れば迎えに来てほしいと頼みました。クリニックに自転車を置いたまま、夫も私も着の身着のまま、財布だけ持って、見知らぬ場所に連れて来られたような感じでした」

 

夫はその場で入院となり、急性骨髄性白血病と診断された。その日から、夫婦の闘病生活が始まった。美紀子さんは、長女を幼稚園に見送ると、登山リュックとキャリーバックに荷物を詰めて病院に向かい、帰りは洗い物を詰め込んで帰ってきた。5ヶ月ほどその病院で抗がん治療をして、白血病治療で有名な病院に転院した。骨髄移植をするための転院だった。

「美紀と、娘のために頑張るよ」

と、夫は言った。

「医師から説明を受けました。先生は、紙に2本の線を描きました。それを指しながら『これが、これからの2年間です。線の両側とも崖っぷちです。この狭い道を歩いて行かなくてはならない、と思ってください』と、説明を受けました」

厳しい道のりであるということは分かった。病院に子どもが立ち入ることはできなかったので、友人宅や幼稚園に長女を預けて病院に通った。病院は全体が無菌室になっていて、荷物も全てアルコール消毒してから、2つめの扉を開けて入っていく。その奥に、夫が居る本当の無菌室があった。外界とは別のところに隔離されている夫は、完治しようと、必死で戦っていた。

 

「最初、夫が入院したとき、私はずっと泣いていました。家でも泣いて、公園に行けば公園で泣いて。小さな子がいると、週末は家族でどこかへ行くのが当たり前という感じで、土日ごとにお出かけしていました。でも、夫が入院してからは、外出するのが嫌になってしまって。家族連れを見るのが、すごくつらかったのです。泣いている自分を見られるのもつらかったです。娘は、全然泣いていませんでした。その当時のことは、覚えていないと言っています」

 

7月に骨髄移植をした。この治療を受けるための抗ガン治療を、何ヶ月もかけて行ってきた。まさに、望みを託した施術だった。骨髄移植は、少量の液を点滴のように針で入れるだけで、予想よりも簡単なものに思えた。点滴が始まると、美紀子さんは長女と2人で隣接する公園に行って、遊びながら施術が終わるのを待った。

「拒否反応が出た方がいいと聞きましたが、夫に拒否反応はあまり出ませんでした。検査、検査を繰り返して、10月に退院できることになりました。退院前に背中からサンプルを採取して、家に帰りました」

束の間の日常生活。家族と過ごせる時間がようやく戻ってきた。しかし、2週間後、夫は通院外来に呼ばれ、白血病が再発している事実が告げられた。

「もし、そこで再発していなかったら、5年で寛解のはずでした。白血球の型の合う方が数名見つかっていて、よくあるパターンの白血病といえましたが、パパのがん細胞は強かった…」

 

夫が家に居たのは、1ヶ月にも満たなかった。夫は、病院に戻り治療を続けた。

「闘病生活も1年ほど経った頃、病院から電話がありました。MRIの検査中に、夫が心肺停止の状態になったという知らせでした。AEDを使って、何とか一命はとりとめたということでしたが、駆けつけてみると、夫は気管挿入され、人工呼吸器をつけられて、意識不明になっていました。それまでに見たこともないような顔をしていました」

 

幼稚園が冬休みになると、長女と二人で実家に身を寄せた。クリスマスの時期、とても2人で過ごすことはできなかった。

美紀子さんは、毎日泣きながら祈った。

「神様、私の命を半分にして、半分を彼にあげてください」

それは、切実な祈りだった。

夫は何とか生還し、1週間後には一般病棟に移れるまでに回復した。再度、骨髄移植も行った。

 

しかし、最愛の夫は、翌年の5月に永眠した。

長女が小学校に上がったばかりだった。

活発な少女時代、夫との再会そして結婚

美紀子さんは活発な少女で、運動神経は抜群、5歳からエレクトーンを習っていて、音楽も得意だった。

「小さなころは、母の後ろに隠れてモジモジしている子でした。でも、小学校ではミニバスケに夢中になって、女子の中では一番足が速かったです。中学からは吹奏楽に入りましたが、陸上部の助っ人として走高跳びに出場したことも。吹奏楽ではクラリネットを吹いていました」

 

エレクトーンの才能を活かそうと、音楽コースのある高校に進学した。高校1年生の時の担任が、その後美紀子さんの夫となった、その人であった。

「入学式で名前を間違えて呼ばれた思い出があります(笑)それが、2人の最初の思い出です」

在学中は、ごく普通の生徒と先生だったが、卒業5年目の同窓会で再会し、社会人同士の付き合いが始まった。

 

夫はすごく優しい人だった。温厚で、寡黙で、怒らなかった。いつも、にこやかに笑っていた。

「夫は数学の教諭で、私も数学が好きでした。はっきり答えが出るのが好きで、角度を求めたりするのが好きでした(笑)だから、ナンプレも大好きです」

現在、中学3年生となった長女も数学が得意だ。親子3人、数学が好き。それが、絆のひとつのようにも思える。

 

ウエディング

悦びに満ちた結婚式当日

娘の変化 母子で乗り越えた喪失

「娘は、2,3歳の頃にラグビーに出会って、小学2年生からラグビーを始めました。娘もまた活発な少女でした。勉強も、一生懸命する子で、頑張りすぎじゃないかな?と思うくらいでした」

長女に変化が現れたのは、小学4年生の頃だった。「気持ちが悪い」「おなかが痛い」と言って、食事がとれなくなってきた。

「とっても痩せてしまって、小学5年生の頃には、小学1年生当時の体重になってしまいました。春休みに、病院を訪ねて、摂食障害と診断されました。そのまま入院となりました」

 

入院している間は、面会が許されなかった。美紀子さんは、荷物を届けて、看護師に渡すことしかできなかった。最初は点滴で栄養を入れる治療をした。医師と母親である美紀子さんとの面談も定期的に行われた。5ヶ月後に退院した時は、母子抱き合って泣いた。

「父親が亡くなったことが影響したかはわかりませんが、頑張りすぎたのかもしれません。退院した時は、顔が真っ白で水太りのような姿になってびっくりしましたが、中学生になってから、娘は見るからに健康的になりました。中学生活はあっという間でした。部活が楽しいようですし、勉強もしっかりやっています」

 

美紀子さんと長女は、7年前から、あしながレインボーハウスのケアプログラムに参加している。夫を亡くして1年が経った頃、インターネットで検索してあしなが育英会が主催する心のケアプログラムに辿り着いた。ケアプログラムでは、子どもと保護者は、別々のプログラムに参加して、ゆっくりと時間をかけて死別の悲嘆と向き合う。

「私にとっても、娘にとっても、新しい友達やファシリテーター(ボランティアスタッフ)に出会えたことは、良いことでした。悩みを話してもいい人ができて、心が楽になりました。ご近所の友達も、夫が亡くなったことは知っていましたが、みんな年齢が若くて死別の悩みを話しづらい関係でしたから…あしながのケアプログラムで心の内を話せることで、ネガティブな考え方が変わったと思います」

 

大切な人を失う経験は、ものすごくつらい。しかも、そのつらさは、その後の生活で永く続く。

「例えば運動会のお弁当の時間は、毎年つらいです。そのことを分かってくれる人が、あしながにはいるということが、私にとって救いでした。つどい(キャンプ形式のプログラム)に参加して、キャンドルをともしながら話をしたときに、『つらい思いをしている子が、私たちの他にもこんなにいたんだ』と思いました」

 

長女は、あしながのケアプログラムに加えて、2020年からラーニングサポートプログラム(LSP)にも参加している。週に1度、オンラインであしながの大学奨学生から勉強のサポートを受けている。

「LSPに参加して良かったのは、勉強時間が定着したこと。定期的に話ができる年上の相手ができて、進路や職業のことを話せるようになったのも、良かったです」

これからの人生

「夫が最初に入院した頃、私は毎日泣いていました。およそ1年半の闘病生活の中で、少しずつ夫がいない生活に慣れていきました。夫が亡くなった時、自分でも不思議なのですが、あまり泣かなかったです。そのまま生活が続き、その流れに乗っている感じでした。当たり前の毎日が繰り返されている…という感じです」

それでも、休日の外出先などで親子連れの家族を見るのはつらかった。せっかく出かけても、少しも楽しめなかった。

「パパが入院した時も、亡くなった後も、周りの親子や家族連れが気になって、悔しかったり、悲しかったりしていました。人をうらやましがってばかりいたんです。でも、ある時思ったんです。『私、これまで何となく生きてきたんだな。何となく時が過ぎていったんだな』って。時間には、限りがある。命には限りがある。そう思うと、毎日毎日を、意義のある日にしよう、何かしら感じて生きるようにしよう、って思えるようになってきました」

今は、生きていることの大切さを感じるようになった。長女や、自分の周りにいる人々と一緒に過ごせる幸せをかみしめている。

 

長女は、闘病中の病院では会えなかったこともあって、生身の父親の記憶はあまり残っていないかもしれない。でも、写真や映像に残された父親は、毎日目にしている。「もしここに、パパがいたらどうなんだろうね?」というのも、母子の間ではよくある会話だ。

「もしここに、パパがいたらですか?娘がこんなに大きくなったのを見て、言葉が出なさそう。私には『強くなったね』って、優しく言ってくれると思います。私は『頑張ってきたよ』って言うと思う。『たまには、帰っておいでよ』って言いたいです」

 

今、この時間を大切にする生活を、美紀子さんはずっと続けたいと思っている。        

 

(インタビュー 田上菜奈)

 

心のケアプログラム(心のケア事業)についてはこちらをご覧ください。

ラーニングサポートプログラム(教育支援事業)についてはこちらをご覧ください。

 

 

 

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や心のケアプログラムの保護者チームの運営に携わっている。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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