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保護者インタビュー「人に傷つき、人に癒される~津波から12年」

保護者インタビューまなざし#25

るりさん(岩手県 40代)

「人に傷つき、人に癒される~津波から12年」

 

るりさんは、2011年3月11日の東日本大震災で、最愛の夫を亡くした。被災時に子どもたちは1歳と2歳だった。笑顔を取り戻すには、永い月日と涙を要した。今、素直で優しく、たくましく育った子どもたちを見ると、「多くの人につながれたから。たくさんの励ましを得られたから」だと感じる。未曾有の災害に翻弄されたるりさんが、震災当時のこと、そして、子どもたちとの今の暮らしを語ってくださった。(冒頭の写真は、陸前高田レインボーハウスにて撮影)

優しくて穏やかな人

夫とは、るりさんが趣味としていた合唱サークルを通して知り合った。一緒に活動する仲間の弟で、優しく、穏やかな人だった。家で家族と過ごすのが好きな、マイペースな家庭人。るりさんの理想に叶った夫だった。

「会った瞬間に、この人と結婚する、と思いました」

後に知ったことだが、夫も、初めて会った時から「この人と結婚するんだろうな」と思ったという。

「顔合わせをしたのは、自分が毎日のように通っていた、近所のお好み焼き屋さんでした。そこのおばちゃんは、私たちが出会ってから結婚するまで、全部を知っている人です(笑)」

互いに飾らずに、素のままの自分を出せて、受け入れられた。2人は相思相愛の夫婦だった。

 

「2人ともパスタが好きで、お互いが食べたいパスタを作り合ったりしました。自分が食べるものを、相手が作るのですから、『もっとちゃんとやって』と、からかったり、褒め合ったりして」

何気ないことが楽しくて、幸せだった。

「1度だけ、家族旅行をしたことがあります。下の子が生まれて6ヶ月経った頃、家族4人で旅行しました。子ども番組のコンサートを観に行って、憧れのお兄さん、お姉さんに握手してもらって、大感激しました。その晩は、温泉に1泊。子どもに手のかかる時期でしたが、本当に楽しかったです。それが、最初で最後の家族旅行となりました」

家族揃っての一枚

夫が帰って来ない

2011年3月11日。夫はいつもと同じ早朝5時に出かけた。るりさんは、いつものように出かける夫を茶の間から見送った。よもや、それが最後の別れになるとは、想像だにできなかった。

「いつものように、近所の実家に遊びに行って、お昼ご飯をすませて、上の子はおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に病院について行きました。下の子が、ようやく昼寝した…と思った時、あの地震が起きたのです」

るりさんは、寝ている次男をそのまま毛布にくるんで、抱き寄せた。落下してくるものから、赤ん坊を守らねばと必死で胸の中に覆い隠した。

 

今まで体験したことがないような、強い揺れ。頭をよぎったのは、るりさんの両親と町の病院に行った2歳の長男のことだった。

「最初に、親と長男が病院のエレベーターに閉じ込められているんじゃないか、という心配が頭に浮かびました。どこに居たとしても、息子は泣いているに違いないと思うと、気が気でなりませんでした。そのうち、近所の人が『津波きた!』と教えてくれ、心配は、ますますつのりました」

 

とりあえず、貴重品を取り揃えて、車で待機していたところへ、両親と長男が帰ってきた。駅前にいた3人は、津波を横目に見ながら、間一髪のところで難を逃れたのだ。

「もし、あのままそこに居たら、間違いなく津波にのまれていました。町を回り込むような遠回りの道を父は選択してくれて、そのお陰で助かりました。病院からの帰り道にコンビニに立ち寄った瞬間の地震だったそうで、長男は帰ってくるなり『おかぁさん、じゅーしゅ(ジュース)かえなかった』と言いました」

 

るりさんがいた場所には、津波は来なかった。しかし、地震で家の中は足の踏み場もない状態になっていた。

「夫から、15時に電話があって、『今帰る。工場がだめだから』と言われました。その後は、電波も混線していて、話せたのはそれが最後でした」

子どもたちを抱いて、ガラスが割れた家の中をどうしたものかと思案したり、散乱したガラスを片づけたり、余震を感じたりして過ごすうちに夕方になった。ガスも、水道も、電気も途絶えていた。暗い中で、子どもたちは怖がって泣き出した。

 

町から来た人が、

「町はもうだめだ、3階建てのビルが水没している」

と言っているのを聞いて、にわかに信じられない思いだった。そして、ようやく夫がまだ帰ってこないことに気づいた。

「どうなっているんだろう?どっかにはいるんだろうね?」

そう話しながらも、底知れぬ不安が、じわじわと押し寄せてくるのを、るりさんは感じた。

 

「ラジオを聞いても、避難所にいる気配は感じられませんでした。幹線道路の上を通っていたらどこかに避難できているだろうけど、下を行っていたらだめかもしれないと思い始めました」

 

翌日、会社の同僚が、夫の所在を確認するために訪ねてきた。

「その人は、自分よりも先に夫は会社を出たといいました。帰り際に、『実家の様子を見に寄る』と言っていたことが分かりました」

また、別の同僚が夫の車とすれ違ったと教えてくれた。それは、海沿いの実家に通じる道だった。

「もしかしたら、津波にのまれたかもしれない」

被害の全容が分からないまま、るりさんの不安は色濃く、強くなっていった。

「ここに来ないで、子どもと過ごしてやれ。DNAだけおいてけ」

実家の父母と共に過ごせたのは幸いだった。しかし、1歳と2歳の赤ん坊が心配で、なかなか動きがとれない。3日目に、るりさんの母親がいった。

「安置所見てこい。もし、いんだば、早く迎えにいけ」

 

一番近くの安置所に行ったが、そこにはいなかった。避難所情報にも名前はなかった。町中の病院も回ってみたが、どこにも夫はいなかった。

「ガソリンも無くなって、遠くの病院まではいけませんでした。一旦、諦めて、家に帰りました」

4日目か5日目に、遠方の兄が来てくれて、捜索を続けた。

「行けるところまで行くぞ」

と、町まで車を走らせてくれたが、あちらこちらの道が封鎖していた。それでも、探せる限り探し回った。

「その時に、初めて町の様子を目の当たりにしました。びっくりしました。どういうこと?という状況が、目の前に広がっていて…戦争のあとみたいな景色が、ずっと続いていました。それを見て、あぁ、だめなんだ、と確信しました」

 

夫が向かったと思しき地域には、しばらくの間、立ち入ることすらできなかった。数日後に改めて探しに行ったが、見ず知らずの方の遺体を発見したらどうしよう、と思うと踏み込んで探すことができなかった。ただ、目で探すだけで精いっぱい。3月はそれで終わってしまった。

 

4月末に長男が幼稚園に入園。その頃には、道も随分と復旧していた。安置所に毎日通って、見ず知らずのご遺体と対面した。赤ん坊を連れて、夫を探すのは、容易な作業ではなかった。

そんな時、花巻から応援で入っていた警察官が、るりさんに声をかけてくれた。

「もう、ここに来るのはやめろ。今、見つかるご遺体は、どれも子どもには見せられないぞ。お母さんは、もう、ここには来ないで、子どもと過ごしてやれ。DNAだけおいてけ」

るりさんにとっては、実にありがたい言葉だった。子どもと自分の口の中から粘膜をとって、警察に提出した。夫の髪か髭が残っていたらDNAを取ることができると言われ、そうした。

 

少し気は楽になったが、待つだけの身もつらいものだ。

「本当は、ハワイにでも流れ着いているんじゃない?」

「記憶を失って、どこかにいるんじゃない?」

現実が大変になればなるほど、楽観的な妄想を抱くようになる。心が無意識のうちにバランスを保とうとしているようだった。

津波ごっこで遊ぶ子ども

長男が入園した幼稚園には30人の3歳児がいたが、半分はおむつが取れていなかった。園児の中にはおしゃぶりが離せない子もいた。入園式は普段着で行われた。生活の端々に、震災の影響を感じた。

 

ある日、園の先生から、

「今日は、津波ごっこが始まりました」

という報告があった。「つなみがきた、にげろぉ」といって、ジャングルジムによじ登るという遊びだった。

「この子たちは、そういう遊びができるようになったので、大丈夫です」

と先生は言ったが、親としては複雑な心境だった。

「お風呂でも、風呂の淵に色んなものを並べては、『おかあさん、つなみがくるよ』といって、全部お湯で流す遊びをしていました。家の近所に仮設住宅ができると、ブロック遊びで仮設住宅を作ったりもしていました。1度、ブロックで家々を作ったあと、『つなみがきた』と言って、全部を手ではらいのけて、その後、再び家を作るんです。『これはかせつ』と言っていました。子どもなりに分かる形で再現しているのでしょう。でも、こっちは見ていて苦しくなりました…」

 

1年ほど経った頃、幼稚園の先生が長男の絵を指していった。

「お母さん、見て、色出たでしょ?」

長男の絵は、入園当時、黒や茶色だけで描かれていた。それが、1年が経つと、緑の葉っぱを描き始めたという。

「幼稚園の先生ってすごいな、ってその時に思いました。子どもの変化を細やかに感じ取ってくれて。長男は、地震の時に母親と離れていたし、津波から逃れた緊迫感も経験していたので、影響が出るのではないかと、私も、ものすごく心配していました」

 

次男は、まだ1歳で、何の状況も分からないだろうと思っていたが、中学生になった今でも、圧迫感や暗闇が苦手だ。愛情表現でハグをしても、ぎゅっとされる感覚が怖いと突き放されてしまう。

「次男は昼寝をしている時に地震が起きたので、毛布にくるんで、ぎゅっと抱きかかえていました。その時の息苦しさや、暗さが、実は幼心に影響を与えていたのだと、後から分かりました。言葉が話せるようになって、『怖い』と表現できるようになりました」

例え赤ん坊であっても、事情は何も分からなくても、地震が衝撃体験だったことは変わらない。

隠れていてくれた夫

夏が来ても夫の行方は依然として分からなかった。8月に夫のDNAの特定ができて、遺体との照合が進んでいたが、夫は発見されていなかった。秋も過ぎ、そろそろ雪が降り始めるかという季節になって、市役所から連絡があった。

「おたくの車が放置されていて、廃車処理がなされていないけれど、廃車にしていいのか?」

という問い合わせだった。

「捜索願は出していたし、何を言っているのか状況が分からず、とりあえず車があるという場所に行きました」

 

そこは、るりさんがいつも通っている道の横だった。車が3台、重なったまま放置されていた。見覚えのある夫の車は、その一番下の車だった。車体には、震災直後に現場に来た、外国のボランティアがつけた×の印が付いていた。「中に人はいない」ことを示す印だった。

「割れている窓から中をのぞいてみると、夫の服の一部が見えました。あれ、これ彼の服じゃない?と思って、遺品だから持って帰ろうと引っ張ったのですが、上に車が乗っかっていて取れませんでした。建築関係の友人に頼んで重機を出してもらい、上の車をどけてもらいました。処分される前に、遺品だけは持ち帰りたいと思って」

その時、重機を操作していた友人が叫んだ。

 

「いる!運転席に横たわっている!!」

 

夫は、車の中に取り残されていた。るりさんは元より、警察もそのことを予想していなかった。混乱の中、車体につけられた×印によって、車内は捜索されずに、8か月もの間放置されていたのだ。友人はすぐに機動隊に連絡をいれ、「中に遺体があるから、すぐに来てけろ」と伝えてくれた。

 

夫は、運転席に横たわっていた。

るりさんが見ても、夫とは分からないほどに、変わり果てた姿だった。顔を見ても、判別できなかった。

「確かに車は夫のもので、着ているものもそうでした。携帯電話も財布も、免許証もあって、確かに夫なのだろうけれど、受け入れることができませんでした。不思議な感覚で…。分かるけれど、分からない…現実を信じたくない。ようやく、帰ってきたなと思ったけれど、どこかで、そうじゃない、これは夫ではないという気持ちもあって」

 

震災時、全てが混乱していた。役所も、警察も、消防も、フル稼働で最善を尽くしていたはずだが、外国ボランティアの救援隊の仕事を全て把握できていたわけではなかったのだろう。まずは、生存者を救出し、遺体を発見することが優先されていた時期に、×印がつけられた車内を再調査する余裕はなかったと、るりさんは想像する。

 

「でも、こんなに時間がかかったことに腹もたって、やるせなくて。抗議しないではいられない気持ちでした」

夫は、安置所に連れて行かれ、そこでDNAの話をしてくれた花巻の警察官と再会した。

「見つかったんだな…」

と声をかけてくれたその人に、胸の内を伝えることができた。

「こんなことは、まだまだあるだろうから、車の再調査をしなくちゃいけないよな。おれが、上には言っとくから」

優しい東北弁の警察官。彼の言葉に、るりさんは少し救われた。

「今日は遅いから、もう帰れ…これから、検死するから、明日また来い。おれは花巻からきていて、明日帰んなきゃいけないけれど、その前に見つかってよかった」

 

「夫は、家に向かう途中で津波にのまれたのだと思います。そこに、ずっと車が重なってそのままになっているのは、何となく目に入っていました。でも、それが夫の車だとは、思ってもいませんでした。

 

発見するのに時間がかかりましたけれど、もし、探し回っていた時に、安置所で遺体を見てしまったら、私はとても現実を受け止められなかったと思います。心が壊れてしまったかもしれない…逃げ道が無かったから。

 

夫の死を受け入れている反面、どこか逃げ道として、妄想や非現実を置いておきたい気持ちがあります。それは、いまだに続いています。もう、12年過ぎたから、受け入れなければと思うのだけれど、まだ、どこかで信じていない部分があります。でも、そのお陰で、思い起こす夫の姿は、健康的なまま…亡くなった顔ではないんです。私のそんな弱さも知っていたから、永い間、隠れていてくれたんじゃないかな、って母とは話したりします」

妻が傷つきすぎないように、でも、雪が降る前には見つけて欲しい。そんな感じかな…と、るりさんは想像している。

YamakageCouple

最愛の夫と

あしながとの出会い

母親の気持ちが穏やかではないまま、子育てをするのは大変なことだ。子どもたちの前では泣くまいと決めていたが、運命の理不尽さに悔し涙があふれることも度々あった。震災直後は、手を差し伸べてくれたママ友も、少しずつ自分たちの生活を優先するようになっていき、やがてるりさんとの間に距離ができていく。その悔しさや寂しさは、経験した者にしか分からない。やがて、父親が一緒の親子連れを見るだけでも、胸が締め付けられるようになった。

 

「震災の後、毎日泣いていた私に『もう、泣ぐな、あきらめろ』と言って諭してくれた長男は、当時、ほんの3歳でした。その口調が夫にそっくりで。まるで、彼が子どもの口をかりて私に語りかけたかのように思えたのを覚えています。それからは、この子たちには、絶対に寂しい思いをさせないぞって、必死でした。レインボーハウスとは、幼稚園を通してつながりました。レインボーハウスでは、震災のことを、普通に、みんなで話せました。たとえ上手く言葉にできなくても、分かってくれる人がいて、一緒に泣いてくれました。子どもたちにとっても、かけがえのない場所だと思います」

 

幼稚園や学校だと、子どもは、正面から、「おめえの父ちゃん、いねえんだべ?」と聞いてくる。

長男は、小さなころから「うん、いないよ」とかわすことができた。そして、弟には「これからも言われるから気にすんな」「何度もいわれるから」と、声をかけた。そして、屈託なくしているのが、るりさんには誇らしかった。彼らは、「いろんな人が、お父さんの代わりにいる」「ゴリさん(レインボーハウス職員)がいるしさ。剣道教えてくれるお父さんたちもいるしさ」と、何人もの大人の名前を挙げる。大勢の人が、一緒に子どもを育ててくれている、と嬉しく思う。

「私、楽しんでいいんだ…」エンターテイメントに支えられて

子どもたちは、るりさんや祖父の影響で剣道を始めた。小学校高学年になると、週末は各地で大会があって、レインボーハウスのプログラムに参加できない日が増えていった。るりさんは、思いを吐き出す機会を失って、少しずつストレスを溜めていった。

「顔中にしっしんができてしまいました。原因が分からず、なかなか改善しませんでした。膠原病を疑って、検査も受けましたが、結局は、ストレス以外の原因は見あたりませんでした」

 

そんな時、職場の同僚がるりさんにこういった。

「るりさん、ときめき、キュンキュンが足りないんですよ、一緒に推し活しましょ!」

その人は、韓流アイドルのファンで、るりさんをコンサートに誘ってくれた。

 

津波の被災者で、夫を亡くしていて、多くの人の支援を受けて…。るりさんは、被災後、ある思いにとらわれていた。

「自分は夫が行方不明で、亡くなったという悲しい人、哀れな人という立ち位置でいなくてはいけないと思う様になっていました。楽しい思いをしちゃいけない。不謹慎だから、って」

 

ママ友たちが、互いに遊びに行く約束をしていても、「るりさんは旦那がいないから、あそこの家は声かけるのを遠慮しておこう」というやりとりがあることを知っていた。被災直後は、「お兄ちゃんだけでも一緒に遊びに連れていくよ」と声をかけてくれた友人も、1年経ったころには「ずっと大変そうだから…」と、避けられているのが分かった。やがて、るりさんは、「私は楽しい思いをしちゃいけない人間で、自分たちは楽しい思いをしちゃいけない家族だ」と思い込むようになったという。

 

しかし、同僚が連れて行ってくれた韓流アイドルのコンサートは、無条件で楽しかった。東京ドームコンサートは、想像以上に華やかで、明るくて、楽しくて、沈んでいたるりさんの心をときめかすのに十分なエネルギーに満ちていた。

「そのすばらしさに、1度で夢中になりました。ファンのひとりひとりが喜びに満ちていて。私も心から楽しくて。SNSでファン同士がつながっているのを知って、思いきってそのコミュニティに飛び込んでみました。そこでは、職場や幼稚園といった地元の付き合いとは全く違う、新しい人間関係が築けました」

趣味を通して出会った仲間なので、気があう。彼らは離れた場所に住んでいるからこそ、親身になってるりさんの話に耳を傾けてくれた。

「身近だと、震災の話をしても『またその話?』と言われてしまったり、『この人だってきっと辛い思いをしているはずだから』と自分が遠慮して話せなかったりします。でも、ネット上でつながる推し仲間(同じアイドルを応援するファンたち)は、住んでいる場所が日本中だから、何を話しても受け止めてくれました。受け止める、心の余裕がありました。『よく頑張ってるね』『ここまでやってきたんだから、るりさんも楽しんでいいんじゃないの?』といってくれて、一緒に他愛のない話で笑い合えるんです」

 

各地にファン仲間がいて、互いの家に泊まりに行くこともある。

「この間は、4年間、毎日のようにSNSで話をしていた友人と、初めて『生』で会いました!(笑)一緒にコンサートを見て、泊めてもらって、少女のようにはしゃいで、とっても楽しかったです」

 

気が付けば、顔一面に広がっていたしっしんが、きれいさっぱり無くなっていた。どんな薬でも治せなかった病が、「推し活」でいつの間にか治っていた。人は人で傷つき、また人で癒されることをるりさんは知った。

父親の背中は見せられないけれど…。

震災は、運命を変える過酷な経験であったが、それがあったから出会えた人も多くいた。憧れの芸能人が、すぐ近所でコンサートを開催してくれたこともある。その人たちと、握手をしたり、話をしたり、慰めてもらったりもした。しかし、揺れ動く心はやっかいで、人の善意を疑ったり、拒絶してしまったりすることもあった。この10年間は、山あり谷ありの連続だった。

 

「母親だから、父親の背中は見せることができないけれど、子どもたちは全力で守って、全力で育ててきました。『どうやったら、こんなにまっすぐに育つの?』と、褒めていただくこともあります。子どもたちは、褒めるときには、とにかく褒めて、叱るときにはハッキリ叱るよう、心がけてきました。何かをやりたいと思って始めたからには、最後までやりなさいとか、ものを粗末にしてはいけないとか、結構口うるさく、言葉にして伝えます(笑)」

 

「最近は、韓流アイドルの推し活をする私が幸せそうと言ってくれます(笑)夫の写真は1枚しか飾っていないのに、BTSのテテさんの写真が部屋いっぱいに貼ってあるので、もしかしたら夫は、相当な焼きもちを焼いているかもしれません(笑)」

 

それでも、朝、子どもたちを送り出す時には「このまま一生の別れになってしまわないだろうか」と不安にかられることがある。その回数は以前に比べれば随分減ったけれども、どこかに、かすかな不安の影がつきまとう。

「中学生になると、見える範囲だけで遊んでくれていた頃とは違うんだって、よく分かっています。最近は、少し旅をさせなくちゃなって思って、意識して手を放すようにしています」

長い時間をかけて、心は復興を続けている。支えて、支えられて、復興の道は続く。

 

 

(インタビュー田上菜奈)

 

 

 

 

 

 

 

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や心のケアプログラムの保護者チームの運営に携わっている。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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