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【震災30年】当時の写真の場所を訪ねて|神戸

コラム 2025.01.22

2025年1月17日に、阪神・淡路大震災から30年を迎えました。当時、手探りで始まった573人の震災遺児への支援は、あしなが育英会の心のケア事業や海外遺児支援事業の端緒となりました。本会が1999年に開設した震災遺児の心のケア施設「神戸レインボーハウス」では、職員やボランティアの方々が遺児たちに寄り添い続けてきました。本会にとって1月17日は、非常に大きな意味を持つ一日です。 

震災発生から4日後の1995年1月21日、本会は当時唯一の拠点であった東京本部から、2人の若手職員を神戸に派遣し、現地調査(状況把握と、奨学生やあしながさんの安否確認)をおこないました。それを皮切りに、多くの職員や大学奨学生を中心としたボランティアが被災地入りし、震災遺児を探すローラー調査や、家庭訪問、遺児のためのプログラムなどに取り組みました。震災遺児たちと関わる中で、遺児たちには長期的かつ継続的な心のケアが必要であると気づき、日本初の遺児の心のケア施設である「神戸レインボーハウス」の建設を決定したのです。


神戸レインボーハウス


と、ここまで我が物顔で本会の阪神・淡路大震災遺児支援の歴史をつづってきましたが、私自身はその歴史を直接経験していません。私は現在31歳。震災当時は1歳で記憶になく、いわゆる「震災を知らない世代」です。正直に言うと、入局2年目の24歳のときに神戸勤務の異動辞令を受け取るまで、人生の中で阪神・淡路大震災を意識したことはほとんどありませんでした。
しかし、途中1年間の東京本部勤務をのぞく7年間、神戸に住まい、神戸で働くなかで、本会や神戸の人々にとっての「1月17日」の意味を、いくらかは知ることができたと思っています。

私の勤務する神戸レインボーハウス(正確には、レインボーハウスに併設されている学生寮が職場です)には、震災当時に職員やボランティアが撮影した多くの記録写真が残されています。アルバムのページをめくるなかで、「今これらの写真が撮られた場所はどうなっているのだろう」というクエスチョンが湧いてきました。震災遺児支援の原点に立ち戻り、その歩みを振り返るため、私はカメラを片手に師走の神戸の街を歩いてみることにしました。

震災直後の神戸市東灘区本庄町

アルバムの写真は、時系列順に並んでいました。最初の数ページは、2人の職員が震災発生から4日後に現地入りした際に撮影した写真です。


この写真の左端には、商店の看板が写っています。店の名前を地図アプリで調べてみると、偶然にも神戸レインボーハウスから北西わずか100mほどの場所であることがわかりました。
知ってはいたものの、毎日のように歩いている道が30年前はがれきで埋もれていたということを改めて知り、胸が締め付けられる思いがしました。


神戸レインボーハウスから2分ほど歩くと、その場所につきました。あたりを見渡すと、昔ながらの木造住宅がなく、比較的新しい建物が多いことに気づきます。阪神・淡路大震災の犠牲者の8割は、倒壊した家屋の下敷きになって亡くなりました。旧建築基準法が改正された1981年以前に建てられた住宅が多く、甚大な被害が出てしまったといいます。神戸レインボーハウスがある神戸市東灘区は特に被害が大きかった地域で、市内9区のなかで最多となる1470人の尊い命が奪われました。

最初に活動拠点を置いた御影工業高校

1995年2月10日、本会は阪神御影駅前にある神戸市立御影工業高校の一室を借り、神戸での初の活動拠点を置きました。東京本部から派遣された職員や大学奨学生などのボランティアたちは、この場所から、震災遺児を探すローラー調査を開始しました。


2024年末、阪神御影駅を降りると、駅前には「御影クラッセ」という商業施設がありました。御影工業高校は2004年に統合のために移転し、2006年に最後の卒業生を送り出して、その歴史に幕を閉じていたのです。跡地には、2008年に御影クラッセが建てられました。


御影クラッセの脇に、「神戸市立御影工業高等学校跡地」と刻まれた石碑を見つけました。


30年前のローラー調査では、新聞に掲載された犠牲者名簿をもとに一軒一軒を訪問し、4日間をかけて504人の震災遺児を見つけ出しました(後に学校等の協力を得て、最終的に573人を確認)。ローラー調査に加わったボランティアの数は、のべ881人にのぼります。この場所で、この881人の熱意によって、本会の震災遺児支援は歩みを始めたのです。

あしながボランティア神戸本部/あしなが育英会神戸事務所

本格的な活動を展開するため、本会は1995年2月26日に、御影工業高校近くの喫茶店跡へと活動拠点を移しました。ローラー調査も引き続きおこなわれ、ボランティアは毎日がれきの中を20~30kmも歩いたといいます。夜は30人ほどが、この「あしながボランティア神戸本部」の床や机に雑魚寝したそうです。
神戸本部は3月28日に「あしなが育英会神戸事務所」に名を改め、職員が常駐し、神戸レインボーハウスが完成する1999年まで震災遺児支援の拠点として、重要な役割を果たし続けました。




御影工業高校から5分ほど歩いた国道沿いに、神戸事務所が入っていたビルはありました。外壁から、同じ建物であることがわかります。かつて神戸事務所があった場所には、建築会社が入っていました。


「黒い虹」が描かれた香住海岸

最後は、1995年8月に実施された「海水浴のつどい(かすみのつどい)」の写真です。
震災遺児34人を、日本海に面した兵庫県香美町(当時は香住町)に招待し、香住海岸の佐津海水浴場で海水浴を楽しみました。このつどいのなかで、父と妹を亡くした少年「かっちゃん」(当時小5)が、黒く塗りつぶした虹が空に浮かぶ「黒い虹」の絵を描きました。本会が心のケアの必要性を痛感し、神戸レインボーハウスの建設のきっかけとなった出来事です。


これだけは少し前になるのですが、昨年10月に鳥取市へ出張した帰りに、香住海岸に立ち寄って撮影しました。JR山陰本線佐津駅から20分ほど歩くと、写真に残る風景がそのまま眼前に映りました。


1995年当時の日本において、遺児への「心のケア」という概念はまだ無かったとききます。しかし、この「海水浴のつどい」をきっかけに遺児の心のケアは産声を上げました。現在では、本会は神戸を含む国内5か所のレインボーハウスで活動を展開し、さらに全国各地で様々な団体によって心のケア(グリーフケア)の取り組みがされています。
私はこの輪がいっそう広がっていくことを、願ってやみません。

震災を知らない世代だけど

2024年11月に日本赤十字社が、阪神・淡路大震災に関する意識調査*をおこないました。「阪神・淡路大震災について知っているか」という設問への回答は、「名称もどのような災害か内容も知っている」が68.1%、「名称は知っているが、どのような災害か内容までは知らない」が21.3%、「全く知らない」が10.7%だったそうです。3割以上が、阪神・淡路大震災がどのような災害だったのかを知らないという結果です。

学生時代に、地学だったかの講義で、随筆家・寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉を教わりました。昨年1月の能登半島地震しかり、大きな災害は必ずやってきます。もちろん第一には防災・減災のためにですが、遺児支援の取り組みを続けていくうえでも、阪神・淡路大震災の記憶を風化させないことは非常に大切であると考えます。

「震災を知らない世代」の私ではありますが、神戸在勤で広報を担う立場として、これからも震災に関する発信を続けていきたいと思います。

*日本赤十字社『阪神・淡路大震災や災害時のボランティアに関する意識調査(2024年)』

投稿者

島田 北斗

小6で父を亡くした奨学生OB。「後輩遺児たちの人材育成に携わりたい」と2016年に新卒で入局。海外担当や関西エリア担当などを経て、2023年から2度目の神戸勤務。現在は学生寮「虹の心塾」、中四国エリア、広報を担当。学生たちと向き合う日々を送る。

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