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保護者インタビューまなざし「オーガニックで色も味も濃い人生を」

まなざし#21

「オーガニックで色も味も濃い人生を」

西川七菜さん(50代 神奈川県)

 

オーガニックレストランを営む西川七菜(にしかわなな)さんは、生き方そのものも自然派志向だ。「得意でもないことを無理して頑張ることはできない。でも、そのおかげでストレスも少なく病気知らずです」と、くったくなく笑うが、その人生は色彩強烈でドラマチックだ。自由を愛し、自分を信じて、破天荒ともいえる人生をここまで乗りこなしてきた七菜さんに、子育てのこと、仕事のこと、夫の介護のことなどを語って頂いた。

コロナ禍で息を吹き返した

サザンオールスターズとサーフィンで有名な地元には、長いビーチが広がり開放的な雰囲気が漂う。その土地で、七菜さんはオーガニックレストランを営んでいる。

「私の母は70年代に日本でも翻訳本が有名になった、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』に影響を受けた人でした。『台所から世界を変える』といって、お母さんたちがしゃもじを持ってデモ行進をした時代。母はそういう中で、都会にいても身体に良いものを作って食べるという活動をしていました。茨木に実験的な農場を作って理想の農業を追究するというプロジェクトに参加した母は、会員を募って、そこでできた野菜を配布する世話人を務めたりしていていました。だから、私も小さなころからおいしい有機野菜を食べて育つことができたんです。時代を先取りしていたと思います」

カーソンは60年代のアメリカで環境問題を告発した生物学者だ。環境問題に人々の目を向けさせ、その影響力は、米国の環境保護運動や農薬散布の禁止などにつながっていった。

「食べ物を作っている人の名前が、食卓にのぼる家庭環境で育ったので、こういうお店を始めたのも、オーガニックに育てられた野菜を、おいしく調理して一緒に食べたらいいよね、という当たり前の発想で始めたんです」

 

しかし、経営はいつも苦しかった。

「もともと東京の世田谷区でお店をやっていて、住んでいた団地の建て替えで地元の神奈川に戻ってきたのですが、世田谷のお店の引き際を迷ったり、神奈川のお店もなかなか軌道に乗らなかったりと、常に苦しい経営状況が続きました」

今年は、神奈川の店を経営して10年の節目を迎えた。同時に、夫が他界して10年になる。3年前には、深刻な経営危機にも直面していた。

「ずっと経営は苦しかったですが、いよいよ辛くなってきて、その年の私の所得は27万円という額になりました。児童手当、児童扶養手当などを加えて、何とか生活していましたが、いよいよ切羽つまりました。家族に『店を閉めようかと思う』と打ち明けた後、生活保護の相談に行ったほどです。しかし、市役所は『奨学金を生活に回せばいい』といって、私の申請をはねつけました」

 

もう、万事休すか…。

 

覚悟を決めて、「お店をやめます」と、常連客にも伝えた。

すると、「やめないで」「続けるために、何ができるか一緒に考えよう」と、友人や常連客が動いてくれた。

「お客さんのひとりが、発酵玄米を作ってみたら?と、提案してくれました。作り方を調べてみると、以前、不要になったからと譲り受けていた、玄米炊き用の圧力鍋と3つの大きな保温ジャーを使えばできることが分かりました。やってみようかと思った時には、既に道具がそろっていたのです。後は私が『やる』と決心するだけでした。発酵玄米は、今となっては私のお店、『オーガニック七菜(なな)』の看板商品のひとつです」

 

そこにコロナ禍がやってきた。

「うちのお店は物販もやっているので、協力金の対象にはならず、通常通り開けていました。すると、健康志向の高まりや、発酵食品への関心から、テイクアウトもイートインも、両方とも需要が増えたのです。そこに特別支援金や給付金が出て、初めて経営に余裕がうまれました。あしなが育英会からも特別給付金が2回も出て!子どもたちにとって、家族にとって、どれほど助かったかわかりません。私たちは、苦境の底を打って、息を吹き返すことができました」

コロナ禍で店を閉じざるを得なくなったという話が多い中、コロナ禍で息を吹き返した奇跡のような出来事だった。

オーガニックな料理

七菜さんのお料理

根拠のない自信とラッキーの連続

七菜さんは自分自身をこう分析する。

「私、元からあまり努力が好きではないんです。目標を定めてコツコツ継続するのが苦手で、『あぁしなさい、こうしなさい』と言われると、考えるだけで嫌になってしまうんです。いろいろ巡ってくるチャンスを手にとってここまでやってきた、いわば『回転すし人生』なんですよね(笑)でも、それでいいのかなと思っています。ストレスが少ないのと、食べ物がいいのとで、全くの病気知らずなんです。4人の子どもも、自宅で自力で出産したくらいですから」

(えっ?!そんなことが可能なのですか、と、2度の出産を経験した記者も思わずのけぞる)

 

「実は、中学生くらいの頃から、子どもを産むことがあったら、自宅・自力で出産したいと考えていました。最初の子どもができたとき、私は36歳、夫は59歳。当時は、最初で最後の出産になるだろうと思っていました。せっかくなので、助産師さんに仕切られるのではなく、自分の思い通りに、わがままな出産をしたいと思いました。自宅出産を奨励している会の人と友人になって、その人が立ち会ってくれることになりました。へその緒は夫が切ったんです」

 

当時は団地の5階に住んでいた。夫は小柄であったため、出産中に何かあったとしても、自分を担いで階段を下りるのは無理かな、と多少の不安はあったが、お産が近づくにつれて根拠のない自信が湧いてきた。

「赤ちゃんは、自分で出てくる。自然なことなので、きっと出来ると思ったんです。時間はかかりましたが、無事、3300グラムの赤ちゃんが生まれました」

 

2人目からは、出産も上手になってきた。4人目の子を産むときは、自分の子どもが直前まで一緒に遊んでいた、近所の子どもたちを連れてきて、7人の子どもたちに見守られながら産む形に。

「4歳くらいの男の子が、お産を見た後に、『ありゃ、痛てーわ』と言っていましたよ(笑)突然のことですから怖がった子もいましたけれど、お母さんたちからは貴重な体験をさせてもらってと感謝されました(笑)」

 

今振り返ると、自分は本当にラッキーだったのだと分かる。

「妹が出産した時は、微弱陣痛で、産後に大量出血もしました。もし、私のような選択をしていたら、母子ともに危なかったかも。仮死状態で生まれる子もいるし、逆子もあるし、そういう場合は病院や助産婦さんのお世話にならないと危険です。自分は本当にラッキーなだけだったと思います。だから、自分のことを棚に上げますが、絶対に真似はしないでください」

破天荒な夫との出会い

夫は22歳年上で、出会った時すでに50代半ばだった。無農薬の野菜を宅配する営業所で知り合った。

「夫は、安保闘争で大学がぐちゃぐちゃになっていた頃、そんな大学に見切りをつけて、ヨーロッパへ渡ったのです。シベリア鉄道でパリに着いて、イタリアに永く居たと聞きました。イタリア語を喋りました。ノリのいい面白い日本人だというので、社交界や芸能界の人たちにも気に入ってもらったという話です。貴族の家に居候したり、俳優の家で子守をしたり。ある男と仲良くなって同居していたら、その家はその人のものではなくて、不法侵入の泥棒だったなんていうびっくり体験も。とにかく、聞いたこともないような武勇伝が次々に出てきて、話を聞くだけでも面白かったんです」

夫は、写真を撮りながら欧州を旅して周っていた。セミプロの腕前だった。イタリアの友人が「お前はすぐに怒るからトラみたいだな」と、トラオというあだ名をつけてくれたという。それ以降、自らトラオと名乗っていた。仕事でもプライベートでも「トラオ」「トラさん」が定着していた。

 

「夫が他界した時、子どもたちは7歳、8歳、10歳、12歳と全員小学生でしたが、父親の本当の名前は知らなかったです(笑)どこに行ってもトラオで通していたので。彼こそが正真正銘の自由人でした。変わっていて、本当に面白い人でした」

七菜さんは、この風変りな人を伴侶に決めた。お金が無くても、無いなら作ろうという発想で心配なし。行動のひとつひとつが面白く、付いていった先での出来事のひとつひとつが発見だった。常識は全て、意味がないように思われた。

トラオと子ども

子どもたちはお父さんが大好きだった

そしてトラオ、アルツハイマーに

しかし、そんな夫との生活は平穏ではなかった。優しかったのは最初の5,6年。普通に話ができたのも10年間くらいか。最後の7年間はDVもあり壮絶だった。

「だんだんと暴力的になり、子どもに対しても容赦なく暴言を吐いたり、家の中でも暴れたりするようになりました。何か変だ、と思った時には、すでにアルツハイマー型認知症を発症していたのです。よくよく考えると、出会った頃から徐々にアルツハイマーになっていったのかもしれません。10年くらいかけて発症に至ると、医師から聞きました」

 

DVが原因で離婚を考え始めたころに認知症が分かり、別れるに別れられなくなった。幼児を含む子ども4人を育てながら仕事をこなし、認知症の高齢者を介護する生活が始まった。

「子どもたちは、大好きなお父さんが壊れていくのを近くで見ていたので、可哀想でした。支離滅裂になったり、勝手な思い込みで逆上したりするので、子どもたちも父親に対してピリピリしていたと思います。長男とは取っ組み合いになったことも。普段はやんちゃな長男も、夫が怒りだすと暗くて狭いところに入って出て来なくなりました」

 

何をしても報われない気持ちのまま、子どもたちのことを案じながら、七菜さんは仕事と育児・介護に明け暮れた。

「これが高齢の親だったら、恩返しの気持ちもあるので落としどころがあるかと思いますが、夫だから辛かったです。まだ、子どもが全員小学生でしたから、『しっかりしてよ』『病気になっているどころでは、ないんじゃないですか』という気持ちも湧いたりして…」

 

やがて夫は家族の中でも孤立した存在に。

「『死にたい』『話しかけても誰も返事をしてくれない』と夫がつぶやくようになりました。子どもたちを集めて、『実はパパは病気なの』とアルツハイマー型認知症のことをちゃんと伝えることにしました。子どもたちは父親の理不尽な行動に初めて納得がいったのか、『わかったー』っていって、優しく接してくれるようになりました」

 

そんな話し合いからわずか1週間後、夫は風呂場で命を落とした。

 

「夫は痩せていて寒がりだったので、温まりたいときにいつでも風呂に入れるよう、24時間風呂が使えるシステムになっていました。私たちが眠った後、風呂に入って急死したのです」

壮絶な日々の果ての、あっけない別れだった。

「正直、本当に大変なことばっかりだったので、亡くなって半年くらいして、ようやく本当の涙が出ました。亡くなってすぐのときは、もっと優しくしてあげればという後悔や懺悔の涙はありましたけれど、『ごめんね』も、『ありがとう』も、『さようなら』もなく死ぬわけ?!って、腹も立ちました。『あぁ、好きで結婚したんだったな』『いろいろ楽しいこともあったな』と思って泣けたのは半年ほども経ってからでした」

今となっては、そんな去り際もトラオらしいか…と思えるようになった。

トラオさん

子どもの写真を撮っているときのトラオさん

「そんなの無理だよ、だってオーガニック七菜の子どもだよ?」

そんな夫だったので、保険も国民年金も蓄えも無し、オープンして間もないオーガニックレストランも自転車操業という状態で、ひとり親の生活が始まった。

「娘が丁度、中学に進学するタイミングでした。入学前の説明会の時に、『卒業する人から制服を譲ってもらえないか』と交渉して、中古のものを調達しました。長男も、同じようにして制服をそろえました」

これも、「無いのであれば、なんとかする」の七菜さん流の愛情だったが、子どもたちは素直に喜ぶことはできなかった。

「長女は成績がよくて、高校は進学校に入りました。その時も、レストランの事業は苦しい時期が続いていて、誰かの制服を譲ってもらい、何とか入学式前に形を整えました。でも、整ったと思っていたのは親だけで、娘は落胆していました。私はすっかり忘れていたのですが、中学入学の時に『高校へ行くときには、制服を新調しようね』と約束していたらしいです。その後も、交通費の調達に四苦八苦したり、部活動の合宿代が遅れることを、顧問の先生に説明する姿を見たりしているうちに、『自分は普通と違う』と感じていたようです。私としては、それらの困難をはねのけて欲しかったのですが、実際のところ、娘はそれに押しつぶされていたのだと思います」

 

進学校だったので、当然大学へ行くものと思っていた。その学校を卒業して就職する生徒は、ほとんどいなかった。七菜さんは生活が精一杯で学費の援助はできない。長女は、「何がしたいかよく分からないまま、自分で借金をしてまで大学に行く選択肢はない」とキッパリ言った。お金が大変だということを、誰かに相談することはしたくないとも。

 

「そんな時、あしなが育英会の給付型奨学金が始まったことを知り、自分たちも該当すると分かって、申し込みました。長女が専門学校への進学を決めてくれた時にはホッと胸をなでおろしました」

その年、3人の子どもたちが一度にあしなが奨学生となった。親の都合で進学できないなんてことは、絶対にあって欲しくなかった。

「後から、聞いた話ですが、長女がいとこたちと将来の話をしていたときに『そんなことができるわけないじゃん。だって、私たち『オーガニック七菜』の子どもなんだよ?』と言っていたって…。胸がつぶれる思いがしました。長女と長男は、そいういう思いが強いように感じました」

つどいに救われた子どもたち

その年、あしなが育英会からつどいの案内が届いた。

「権利であり、義務でもある、ということだったので、行くように勧めました。専門学校生だった長女は忙しくて、1晩だけの参加だったのですが、『すごく楽しかった』といって帰ってきました。それは少し意外でした」

長女は、つどいを機に変わった。

「自分と同じように親を亡くした学生が、こんなに明るくしている、ということを目の当たりにして、気持ちに変化があったようです。私に対して恨みがましい思いを抱いたり、人に対して引け目を感じたりしていた部分が、その日から無くなりました。『何で私たちだけ』という思いから解き放たれたのだと思います」

 

高校2年生だった長男は、

「つどいなんて、どうせガリ勉ばっかり来ているんだろう、行きたくない」

といって参加しなかった。しかし、2年次に留年が決まり、2度目の高校2年生をしているときに、

「今後、あしながのお世話になる生徒が出てきたときに、君がきちんとしていてくれないと、その人の為にならないから」

と担任が背中を押してくれ、渋々参加を決めた。

「長男も、自信がない、将来に希望が持てない、環境にも引け目を感じていた子でした。努力ができるタイプでもなく、自信の持ちようがなかったというか。全て学校のせい、親のせい、環境のせいと思っているようでした。ところが、イヤイヤ行ったつどいが、すごく楽しかったというんです」

 

長男は、髪をセットして、ピアスをして、チャラ男の様相で参加した。内心、「あしながなんて変な奴らの仲間になれるか」と息巻いていた。最初は、見た目で怖がられ、本人も相当緊張していたという。しかし、やがて打ち解けてくると、彼らは心の垣根を飛び越えて、互いに近づいていった。参加者みんなが経済的に大変で、自分と同じように奨学金を借りて頑張っていると分かり、長男もまた、「自分だけではない」と悟った。

「楽しかった、って帰ってきただけでも驚きでしたが、つどい仲間に誘われて、箱根や山梨まで出かけていったり、クリスマス会に参加したりしていました。高校を卒業した今でも、仲良くしている友達がいます。長男はその頃荒れていたので、家でもどこか腫れ物に触るかのように接していました。親や兄弟では変えることができなかった頑なな部分を、つどいが緩めてくださった。頑張ってみようかな、頑張ることは恰好悪いことではないよな、って分かってくれたようです」

子どもからの応援、勇気百倍

生前、仕事に育児に奔走する七菜さんに夫が言った。

「母親っていうのは、何もかもさらけ出して子育てするしかないんだぞ。いいところばっかりを見せてもいられないし、いいところも、ダメなところもひっくるめて回していかなくちゃいけないんだぞ」

その言葉が、強く心に響いたという。

「私自身は、客観的に物事を見る心の余裕もないし、筋道立てた、建設的な考え方も得意じゃないので、その時々でいいと思ったことを一生懸命にやるしかないんです。でも、私なりにいろいろ考えた結果、子育ては子どもたちがひとりで生きていけるように手伝う仕事だなって思いました。彼らが、何か本気でやりたいことが見つかったとき、そのためなら寝食忘れて踏ん張るっていう日が、きっと来るはず。それならば、その時に踏ん張りがきくように、丈夫な身体に育ててあげようって思ったんです。健康的で、おいしいものをたくさん食べさせて」

オーガニックな食事は愛そのもの。工夫して、工夫して、安くておいしくて身体にいい食事ができるよう知恵をしぼった。

 

「お店をもう一度頑張ると決めたときに、子どもたちにLINEでメッセージを送りました。『ごめんね、私こういう生き方しかできなくて。また、苦労もかけるし、心配もかけるけど』って。その時、『こんな生き方しかできなくてなんていうなよ。頑張れよ。応援しているよ』『胸をはれよ』『大丈夫だよ、頑張って』と、子どもたちから応援のメッセージを受け取りました。報われた思いでした。勇気百倍になりました」

 

一度は店を閉める覚悟をしたが、多くの助言、応援があって、また、コロナ禍の奇跡もあいまって、レストランを立て直すことができた。

オーガニック母さんの、オーガニックな人生は、これからも続いていく。

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レストランのニュースレター

 

(記者 田上菜奈)

 

 

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