保護者インタビュー「生と死の千夜一夜物語」
保護者インタビューまなざし#23
「生と死の千夜一夜物語」
京さん (50代 東京都)
京さんの人生は、孤独と苦労、忍耐の連続だった。韓国から日本に来てからは、常に生と死のせめぎ合いを見つめるように生きてきた。穏やかで、物静かで、小柄な京さんの外見からは、その壮絶な人生は想像できないかもしれない。結婚して、言葉も分からない国へ渡っての千夜一夜物語。そのほんの一部を、ひもといて頂いた。
右も左もわからないまま仕事を引き継ぐ
5年前、夫の死去にともなって、京さんは夫の旅行会社を引き継いだ。韓国からのインバウンド客や、日本からの旅行客を取り扱う旅行会社だ。
「この2年間、全く仕事がありませんでした。社員は、今は私ひとりになりました」
都内のビルの一室にある事務所で、京さんは一日のほとんどを過ごしている。
「夫が仕事をしていた時には、従業員は5人、韓国支社にも2人いて、日本に来る観光客も、日本から世界へ旅する韓国人の人もたくさんいました。夫が亡くなり、コロナになって、この2年ほどは全く仕事がありません」
2007年に夫が脳出血で倒れた後、京さんは会社に出て、会計と経理の担当者に状況を聞いた。2006年度には1億円以上の利益があり、1500万円ほどの資金があった。しかし、支払いも1500万、1200万、160万と高額にあり、京さんにはどう工面したらいいのかよく分からなかった。銀行から融資を受けても、韓国からの未収分があったり、カードでの負債もあったりと、融資を上回るスピードで請求が来る。突然背負うことになった責任の重さに戸惑い、身動きがとれないでいた。
「首が回らないとは、このことでした。どんな時も、お金の心配が一番苦しかったです。お金の悩みはしつこいです。一度、お金のことで銀行から電話があると、1週間はつらかったのを覚えています。取り立ての電話も、休むことなく会社、自宅にまでかかってきて、長い間苦しめられました」
「大阪の業者と裁判になったこともありました。裁判と聞いて、もっと怖かったです。裁判のために大阪に行かなくてはならないという時に、夫の脳出血の再発があって、大阪に行けなくなりました。夫がどうなるか分からない状態で、どうしよう…って困り果てていたら、裁判所の事務官の方、差し押さえのあった銀行の方、無料相談所の弁護士の方などが、とても親身に助けてくれ、訴えは取り下げになりました。本当に、いい方々に支えられて、何とかやってこれた感じです」
韓国から日本へ
京さんは、幼いころから、物静かで恥ずかしがりや、ひとりで本を読んだり、映画を見たりするのが好きな女の子だった。学校を卒業してから、貿易会社で10年間働いた。建築関連の部署で平面の図を3Dに立ち上げるCADを学んだ。パソコンを使った仕事が好きだった。
社会人になって、京さんはひとり旅に出るようになった。
「最初はどこかに隠れてしまいたい気持ちから、ひとり旅をするようになりました。旅に出ると仕事からも家族からも自由になれる気がしました。島巡りをしたり、山登りをしたり、山寺に泊めてもらったりしました。旅で出会う人は、もう二度と会わない人だ、と思うと本音の話ができたので、旅が大好きでした」
29歳のとき、知り合いに夫を紹介された。共通の友人が、京さんの写真を夫に渡したのが縁だった。
「実際に会ってみると、夫は背が183センチある、がっしりとした社交的な人で、内気な私でも一緒にいるのが苦にならない、親しみの持てる人でした。3歳上でしたが、ずっと大人な感じがしました。夫は、会社を立ち上げていたので、家庭を持って安定したいと思っているようでした」
この人となら、きっといい家庭を築くことができるだろう。とうとう、自分の居場所ができるんだ…。33歳の京さんは、夫との結婚を決意して、韓国から日本に移り住んだ。
孤独の深淵
ひとり旅の経験も多く、海外にも興味があった京さんは、日本に移り住むことを楽観視していた。しかし、実際に来てみると、知り合いが誰もいない、言葉も通じない異国での生活は、心細いものだった。
「結婚と、海外への移住をいっぺんにしたのは、冒険のし過ぎだったかもしれません。最初に住んだ埼玉では、周りに韓国の人はいなくて、夫は忙しくてほとんど家を空けていたので、ものすごく寂しかったです」
だから、子どもを授かったと分かったときには、寂しい中に一筋の光が差したようだった。
初めて妊娠して、身体や心が刻々と変わっていく不安定な日々も、京さんはひとりで過ごしていた。夫は早朝から深夜まで働きずくめだった。しかし、家族が増えたら、その状況も変わるに違いなかった。
「でも、その子は死産しました。無脳症という重篤な病気を持った赤ん坊でした。妊娠9ヶ月の時にそれが分かり、あきらめざるを得ませんでした」
京さんは、「この時が人生で一番つらかった」と、その頃を振り返る。韓国の家族に事実を伝えることすらできなかった。日本には、気持ちを話せる友達すらいなかった。
「放心状態で、ひとりで部屋にいて、天井を見上げながら首を吊ってしまおうかと考えたりしていました。その時、たまたまつけたテレビニュースで、連帯保証人になった3人の男性が、3人で黙々と食事をした後、3人とも首を吊った、と報じていました。それを見ていてヘナヘナと、気が抜けていきました。3人がどんな気持ちで食事をしたんだろう…と考えると、首を吊ろうという気持ちがなくなりました」
しかし、京さんの苦しみはその後も続く。この後、2人目と4人目の赤ん坊を、同じ無脳症で失うことになった。3人目の赤ん坊だけが、無事に生まれてくれた。それが、現在、あしなが奨学生となって大学に通う長男だ。
「この数年間は、本当につらい日々でした。日本語も分からず、せっかく生まれてきてくれた長男には、どう接したらいいのかわからないことばかりで、産後うつになりました。夫は相変わらず多忙で、夜中に少し話ができるだけ。韓国の母も亡くなってしまいました。お産をするだけで、力尽きたように感じました」
京さんは、長男に、絵本を読み聞かせてあげようと思い、奮起して日本語の勉強をはじめた。
「子どもと一緒に、自分も少しずつ日本語と、日本の暮らしに慣れていこうと決めました。保育園に通うようになると、ママ友もできました。ママ友たちとは、いまでも会う仲です。日本語の読み書きが苦手だったので、保育園の先生とのコミュニケーションはよくありませんでした。これではいけないと、日本語検定を受けて、もっと日本語を知ろうと勉強しました」
徐々に、言葉を理解し、話せる友人も増えてきた。長男は小学校へ入学した。マンションも購入して、京さんの日常は安定してきた。自身が心理的に危険な状態になったことから、放送大学で心理学を学び始め、ようやく孤独の淵を脱したかのように思えた。そんな時、生活を一変させる、大きな出来事が起こった。
「2007年の5月に、夫が脳出血で倒れたと取引先から電話がありました。夫は取引先と会食中でした」
壮絶な闘病生活
「今夜が山かもしれない。すぐに、お子さんを連れて、病院へ来てください」
そう言われて駆け付けた京さんだったが、動揺していたのと、知らない言葉が多かったことから、ほとんど医師の説明が分からなかった。通訳を介して、何とか手術の同意書にサインができた。夫は手術室に担ぎ込まれ、そのまま12時間、扉は閉まったままだった。生死の境にいる夫のことを思って、京さんは泣き続けていた。
「息子と、会社の人と、椅子に座って待ちました。翌日になっても手術は続いていて、みんな、ずっと緊張していました。一緒にいた息子がふいに『しかし、お腹すいたな』と言って、周りの大人が笑いました。こんな時でも、人は何かを食べて生きていかなくてはいけないんだと、息子が気付かせてくれました」
夫の状態は不安定で、3日後にもう一度手術を行った。
「顔がものすごく大きく腫れていて、ベロも出ていて、死んだ人の顔になっていました。6ヶ月ほとんど意識ないまま入院が続きました。夫はのどを切開して呼吸をしていました」
その後、3ヶ月ごとに病院を移って療養した。夫は少しずつ回復へ向かった。1年半後に病院内の療養施設に移り、2年後、自宅へ帰ることができた。
看病をしながら、度々、京さんには心の危機が訪れた。「命の電話」に電話をかけたが、いつかけても、何度かけても通話中で、相談員とつながることはできなかった。
「ためらいながら電話して、電話がつながらないとどこかホッとして、何日かしたらまた電話して…を繰り返すうちに、あぁ、世の中には、死にたいくらいつらい人が、たくさんいるんだなぁと思いました。すると、その時もまた『つらいのは私だけではない』という思いが湧いてきて、救われました。それでも、お金のやりくりが大変で、毎月首をしめられている思いでした」
自宅へ戻ってからも、夫は2年ごとに脳出血を再発して、その度に一層弱っていった。京さんは夫の代わりに会社で働き、昼間はヘルパーが介護にきた。ヘルパーからは施設に入れることを勧められたが、夫はそれを嫌がった。
「リハビリを一生懸命やっている夫を尊敬しました。目標に沿って、必死でリハビリする夫は、毎日毎日さぞかしつらいだろうと思うのに、弱音を口にしませんでした」
183センチ100キロだった夫は、病気知らずの健康体だったが、病気の原因は過労だった。何でも自分でなんとかしよう、という性格が裏目に出たと、京さんは思っている。
しかし、きついリハビリも、夫が望むほどの効果を上げることはできなかった。のどを切開して、言葉もままならない、身体もいうことを利かない自分を、夫は受け入れることができず、常に怒っている状態だった。感情失調を起こして暴れることもあった。
「夫はいつも、家族には限りなく許しを得たいと言っていました。でも、リハビリを一生懸命してもよくならず、苛立って暴れることがありました。私が留守の時、息子は夫を気にかけてくれていましたが、大きくなってからは、ふたりが対立するようになりました」
夫は度々深刻な状態になり、京さんは仕事も手が抜けず、気の張った毎日だった。そんな中、長男は何でもひとりでやってくれた。
「息子が一番犠牲になったと思います。寂しい思いをさせました。情緒不安定になることもあり、学校ではいじめられたり、殴られたりしていました。小学校の卒業アルバムには、同級生が息子を名指して『車にひかれて』と書いていました。でも、私は息子の為に何もしてあげられませんでした」
追い詰められていく家族
「2011年の東日本大震災の時、私は事務所で仕事をしていました。大きな揺れの後、息子から電話があり、『お父さんの手がだらんとしていて、様子がおかしい』というのです。電車は止まってしまったので、3時間歩いて家に帰りました。夫はショックからか3度目の脳出血を起こしていたのです。エレベーターも止まっていたので、救急隊は7階から夫を担いで降ろしてくれました。でも、近くの病院は300人待ちといった混乱状態で、別の病院で受け入れてもらえたのは夜中過ぎでした。小6の息子は、大きな余震が続くマンションにひとり残っていて、さぞ怖かったろうと思います。『自分は大丈夫だから、パパの傍にいてあげて』と言ってはくれましたが、帰ってみると電気を全部つけて、窓を開け放ったまま眠っていました。その日は、本当に大変で…病院から歩いて帰りながら、途中で『ワーーーッ』と、声を上げて泣きました」
高校に入ると、息子の生活は荒れた。勉強はあまりせず、ネットの世界にこもるようになった。夜中、京さんが夫を担いでトイレに行くとき、昼夜逆転した息子が音楽やゲームにふけっている姿が見えた。高校1年生の終わりに学校へ呼び出された。複数の教諭が集まって、長男を留年させるか、転校してもらうか、と審議する場だった。京さんは、「この子の問題もあるが、父親の事情を分かって欲しい」と必死で弁明した。何とか留年が決まり、長男は学校を続けることができたが、京さんには、毎日の弁当を作ることくらいでしか、応援の方法が分からなかった。
「ある日、夫が暴れて、たまたま腕が私の顔に当たりました。息子が『お母さんに何をするんだ』といって、夫を殴りました。母親をかばうためにそうしてくれたのだと思いますが、看病するなかで一番ショックな出来事でした。『死にたい、死にたい』と口にした夫に、息子は『そんなに死にたいのなら、お願いだから死んでくれよ』といいながら殴りました」
家族全員がやるせない思いを抱え、疲れていた。愛があるからこそつらかった。
「今は、何であの時、積極的に夫をかばわなかったんだろうと後悔しています。実際に、夫は何度か自殺を試みたように思います。本人は事故だったといいますが、慎重な性格だった夫が誤って転落したり、どこかに突っ込んだりすることは考えられなかったです。あぁ、銃がほしいなぁと思いました。そうしたら、夫も自分も…と妄想していました」
安楽死はできないか、と夫に聞かれて、海外の資料を取り寄せたこともあった。しかし、費用がかかりすぎて、とても実現できなかった。
「その時は外国への渡航費用はおろか、持っていた宝石を売って、お米を買うことすらありました。生活は困窮していました」
もちろん、夫に死んでなど欲しくなかった。しかし、全員が、心理的にはぎりぎりまで追い詰められていた。京さんは、夫が何としても自害しないよう、刃物の置き場には細心の注意を払った。
2016年の夫の誕生日に、脳出血の再発があり入院した。その脳出血を機に、嚥下がうまくできなくなり、胃ろうの手術も上手くいかず、夫は衰弱していった。
「あんなに大きかった夫が日に日にひからびていくのを、私は見ていることができませんでした」
韓国から兄と姉が会いに来てくれ、その翌日、安心したかのように夫は永眠した。
10年間にわたる、壮絶な介護生活の幕が下りた。
コロナ禍で見た別天地
「夫の死後1,2年は、後悔ばかりしていました。体調も悪かったです。もっとああしたら、あの時こうしたら、と悔やまれることばかり思い出して。私にとって夫は心の支えで、どんな形であっても生きていて欲しかったのです」
そして、コロナになり、どこにも出られない、人の往来もない状況になった。京さんは、時間をかけて気持ちを立て直すことができた。
「勉強を始めました。勉強に没頭することが癒しになりました。集中することで、1日15時間くらい勉強できました。2020年に国内旅行業務取扱管理者を、21年に総合旅行業務取扱管理者の資格を取得しました。旅行会社は5年ごとに登録の更新が必要で、今は私ひとり社長ですから、管理者の資格がどうしても必要でした。今度は、通訳案内士に挑戦します」
京さんは、旅行の仕事を継いだものの、いつも自分に合わない服を着ながら、人と接しているような気持ちだったという。しかし、夫と知り合って、人との接し方を教えてもらったからこそ、ここまでやってこれたとも思う。
「こらから先の会社ことは本当に分からないです。果たして観光客が戻るのかもわかりません。このパンデミックが終わったら、メタバース、仮想の旅行がメインになるんじゃないかと思っています。現地ガイドが携帯ひとつで博物館とか美術館とかコンサートに行って、雰囲気を伝えるのです。自分のアバターに百貨店で服を買う時代。韓国はITが進んでいます」
京さんは、今年の5月、友人から誘われて、初めてアルバイトを始めた。韓国でも、日本でも、それまでアルバイトの経験が無かった。それは夜の警備の仕事だった。水道や路面工事の現場で、車の誘導をする仕事だ。
「全く知らない世界で、ずっとおどおどしていました(笑)立っているだけで、お金をもらえるのが申し訳ない気がしました。まだ慣れないです」
「アルバイトを始めたと言ったら、ママ友が様子を見に来てくれて、私に抱きついて泣いて帰りました。でも、ずっと立っていると、学ぶこともあるし、いままでのことを繰り返し考えたり、『私は何だろう?』と自問自答したりできるんです。夜の8時、9時ころから翌朝の5時まで道路でただ立っている。別の私になった気分になります」
工事現場には、コロナで職を失って働きに来た人、学生、外国人がいる。同年代の人もいる。
「始発電車で帰る時に、ミャンマーの人と話したら『食事は一日一食。子どもが18人。本当の子は4人』と言っていました。ウズベキスタンの人は昼間も夜も仕事をしている、と言っていました。仕事は上手だけれど、日本語が上手くない人もいます。色々な国の外国人がたくさんいて、私に話しかけてくれます。人それぞれ、色んな事情があるんだなぁって思います。工事現場はまるで、別天地のようです」
明けの星に慰められて
「夫が他界して、3年、4年が過ぎたとき、今の状況を受け入れようという気持ちになって、少し楽になりました。私が先に変わらないと、周りも落ち着きませんし。心の平穏が第一。それまでは、心の戦争で苦しかったです」
京さんが落ち着いてくると、長男も、落ち着いてきた。高校まで続けた剣道は2段の実力に。音楽は自分で演奏してライブ活動をするまでになった。今は、作曲の勉強もしている。
夜、警備の仕事をしながら京さんは自分に語り掛ける。それは、2人の自分が会話をしているようだ。
「今日はどう?」
「風が吹いている」
「気持ちがいいね」
まだ、独身で韓国の山寺を巡っていたころ、40代で僧侶になった人を多くみかけた。
「40代は人生の重い荷物があるみたいだ」
と20代の京さんは感じた。そんなことを思い出したりもする。
仕事が終わって、始発を待つ間、京さんはひとり公園でブランコに乗ったり、ベンチに寝転がったりして過ごす。明けの星がキラキラと瞬いているのを眺めるとき、何とも幸せな気持ちになる。
「ずっと、会社、家、病院を回るだけの暮らしだったので、毎回、違う現場に行くのが楽しいんです。現場によって色々なところに行けるのも、公園でずっと座っているのも、なかなかできない経験です。気持ちがいいです」
涼しくなってからは、誰もいない夜明け前の道を、数時間かけて歩いて帰ることもある。最近のお気に入りだ。自分の足音だけが聞こえる町が心地いい。
父母を失って祖国が遠くなった。この後、会社がどうなるのか、どこで暮らすのか、まだ何も決めていない。今は、夜明けの公園の平穏の中に身を置くのがいい。暁の星が少しずつ消えていくのを眺めながら歩くのがいい。
「いつか巡礼の旅をしたいです。四国と、カミーノ・デ・サンティアゴと。夫がいつも、私の傍にいることを感じています」
(インタビュー 田上菜奈)