保護者インタビューまなざし「何とかなるから大丈夫だよ、とあの頃の自分に伝えたい」
保護者インタビューまなざし#27
「何とかなるから大丈夫だよ、とあの頃の自分に伝えたい」
のんさん(50代 首都圏)
のんさんは、14年前に夫を亡くした。実家にも頼れず、幼い子ども3人を抱えて、必死に生きてきた。振り返れば「子どもたちにもっとこうしてあげられれば」と思うことはたくさんあるが、当時は一日一日を回していくことで精一杯。末っ子も成人して大学3年生となった今、改めて激動の14年間を振り返っていただいた。
物静かで、真面目な夫
夫と初めて会ったのは、大学のオーケストラサークルだった。のんさんはフルート、夫はファゴットの演奏者。のんさんよりも1つ学年が上で、楽器の演奏が上手く、木管楽器のリーダーとしてセクション練習を取り仕切っていた。夫は物静かで、自分から話しかけるタイプではなかったが、真面目で堅実なところにのんさんは惹かれた。尊敬する気持ちが強かった。
「夫は大学に入ってすぐに血液の病気を発病して、休学していました。私たちが出会ったのは、病気の治療を終えて大学に戻ったころでした。病気のことは聞いていましたし、通院や投薬は続いていたのですが、それが深刻な事態になることは、2人とも想像していなかったように思います。若かったからか、2人とも楽観的でした。ただ、私の両親は夫の健康を理由に、結婚に反対しました。自分たちが子育てを経験して、万が一にも夫に何かあった時には、大変なことになるだろうと心配していたと思います」
しかし、のんさんにとっては、健康の不安よりも「真面目で堅実」という夫の性格が、結婚を考える上でとても重要なことだった。
「私の父親はお金遣いが荒い人で、ギャンブルなど自分の楽しみの為にお金を使ってしまう人でした。母も私も経済的に苦しい生活を強いられたので、結婚するとしたら、絶対に真面目でお金にも堅実な人が良かったのです。夫は真面目で、堅実で、穏やかで優しくて、私の理想に叶った人でした」
夫は音楽教師を目指して、教育学部で音楽を専攻していた。しかし、病気のこともあり、将来に迷いがあった。
「夫は子どもが好きで、特に小さな子どもが大好きで教師になりたいと言っていました。でも、教師は体力を要求される仕事ですから…病気のことを考えると難しかったでしょうかね。結局、勉強をやり直して公務員になりました。私も公務員になったので、私たちは同じ役所で仕事をすることになりました」
2人は結婚し、子どもに恵まれた。夫は子煩悩で、堅実で、穏やかで、理想的な伴侶に間違いなかった。
病気と向き合う日々
長女が3歳、長男が1歳になったころ、夫は度々体調を崩すようになった。
「私が一番下の子を妊娠したころだったでしょうかね、夫に貧血の症状が出始めました。骨髄異形成症候群という血液を作り出す細胞に不具合の起こる病気でしたので、検査の数値が悪くなると、輸血を繰り返していました」
夫が入院中は、可能な限り病院に行った。育休に入った時期にも夫は入院していたが、臨月になるまで毎日病院に通った。
「上の子どもたちを保育園に預けてから、車で病院に行くのですが、かなりの距離があって、着くのはお昼頃。とんぼ返りで帰ってくるという感じでした。出先で赤ちゃんが生まれてしまったら大変!というので、臨月に入ってからは、毎日、電話で夫と話をするだけでした」
父親の闘病や入院は、3歳の娘にもストレスを感じさせたのかもしれない。保育園スタッフのエプロンを引っ張るなどの、荒い行動がみられるようになった。夫のことも気がかりだったが、まずは子どもに気を配るよう努めた。
のんさんは無事に次女を出産し、家族はますますにぎやかになった。退院した夫は、仕事を続けながら病気と向き合い、子どもたちの世話をしてくれた。のんさんも、3人の子育てと家庭を切り盛りしながら、仕事に復帰した。
「夫の両親は遠方で、祖母の介護もあって、家を空けることはできませんでした。私の母も、病気の父の介護があって多忙でした。どちらの実家にも頼ることが出来なかったので、保育園を利用しながら、毎日、その日をこなしていくことに必死という感じでした。ふたりで一生懸命やっていたと思います」
幸い夫ものんさんも、仕事を長期間休むことなく、闘病も育児もこなすことができた。ただ、育児を「楽しんでいる」実感は抱けなかった。
「もう少し子どもと何かできたらなぁ、と後悔することもたくさんあるんですけれど、その時は一杯一杯でしたね…」
長女は幼いころから体操などの習い事をしていて、その送り迎えは夫がしてくれた。帰り道、夫は長女と2人でファミリーレストランに寄ることもあったという。そういうささやかな楽しみを、長女は今でも覚えている。
「夫は、あまり感情を表に出す人ではありませんでした。どんな時もわりと淡々としていて、思い詰めて悩むタイプの人ではありませんでした。抱きしめるとか、『好き』と口にしなくても、家族を大事にしていると感じました。子どもたちにも、とても優しかったです。それを子どもたちも分かっていたと思います」
輸血が長期間に及ぶと、他の臓器に悪影響を与えるというので、臍帯血移植を行うことになった。夫は仕事をあきらめずに、体調と相談しながら働き続けた。
病気だとは分かっていたけれど…
臍帯血移植をした後、夫の体調がいい時には、家族で旅行もできるようになった。特に思い出に残っているのは那須高原だ。牧場に泊まって、動物と触れ合い、陶芸やガラス細工の体験をして、楽しい時間を過ごした。
「夫は移植の後、とても痩せました。子どもたちは小さいながらに、そんな父親をいたわっていました」
熱が出ると入院して加療する日々。改善すると職場に復帰した。やがて、「度々休むと職場に申し訳ない」といって、熱が出ても自宅療養で済ませることが多くなった。しかし、それは肺の機能を低下させる結果となり、自宅で酸素吸入器を利用する必要に迫られた。腎臓も弱ってきて、足がパンパンにむくんだりもした。
「肺の状態が悪くなってから入院した時は、この状態だと退院しても仕事への復帰は難しいだろうなって思いました。だから、私が仕事を辞めることは考えられませんでした。フルタイムで働いて、ワンオペで3人の子育てと家事を回す私を見て、夫は、『ごめんね、自分が傍にいられなくて』と申し訳なさそうにしていました。でも、自分の病状を悲観することもなく、淡々としていたので、私も、まさか夫が亡くなるとは思っていませんでした。闘病が長く続くと、それが日常になって深刻に考えなくなるのかもしれません」
ある日の夜中に、夫が入院している病院から連絡があり、「人工呼吸器をつける」と言われた。その時も、真夜中という時間や、すでに眠っている子どもたちのことを考えて、「明日行きます」と答えた。
「深夜で電車もなく、私は高速道路の運転が苦手でしたし、寝ている3人の子どもたちを連れて病院に駆けつけることは考えられませんでした。でも、冷静に思い返すと、深刻な事態がいつ来てもおかしくない状態でした。翌日病院へ行くと、夫は人工呼吸器を付けられて意識がぼんやりとしていました。すでに、会話ができる状態ではありませんでした。人工呼吸器はつらいので、ぼんやりとさせる薬を使うのだそうです。連絡があった時、すぐに駆けつけていたら、最後に言葉が交わせたかもしれない…そう、今でも悔やむことがあります」
夫は、その後数日間、人工呼吸器で生かされている状態が続いた。夫の両親も駆けつけて、子どもたちも病室につめて、最期の時間を共に過ごした。夫は、そのまま徐々に弱っていった。そして、静かに38年の人生を閉じた。
「子どもたちは、父親の姿をしっかり見ていました。一番下の次女も6歳になっていました。長男が8歳、長女が10歳。何となく、状況から分かっていたとは思いますが、どうして死んでしまったの?とは、聞いてきませんでした。後から知ったことですが、聞いたら私が泣きそうだったので、聞けなかったのだそうです。亡くなって4,5年経ったころ、詳しい経緯を子どもたちに話す機会がありました。それまでは、隠したわけではありませんが、特に話題にはなりませんでした…」
夫の死のわずか1ヶ月前に、病気療養中だった実父も亡くなった。この時期は、のんさんにとって、本当に辛い日々だった。
必死に子育て。でも、後悔もたくさん。
夫が亡くなった後は、毎日を回すのに必死で、あまり記憶に残っていないくらいだ。
「その頃はまだ、グリーフケアというのも広まっていなくて、子どもたちに心のケアが必要だということには気づきませんでした。これも後から聞いたことですが、子どもたちも精神的にはまいっていて、うつ状態だったそうです。小学5年生だった長女は、遊びに行く気にもなれず、ただボーっとテレビを見て過ごしたと言っていました。真ん中と下の子は、少し問題行動を起こして、学校から呼び出されたりしました。いたずら程度の事でしたけれども、本当に真面目な振る舞いのいい子たちだったので、ショックを受けたのを覚えています」
子どもたちから見たのんさんは、必死過ぎて怖く映ったのだという。
「次女からは、『お母さんは、子どもが嫌いなんだと思っていた』と言われたことがあります。子どもたちも寂しかったと思いますが、夫の闘病中も、亡くなった後も、家事をこなさなきゃ、早く終えなきゃというプレッシャーで私は必死の形相でした。今思えば、手を抜けるところは抜いて、子どもたちの話を聞いてあげればよかったなと思いますが、その時は、子どもの相手をするよりも、手作りで栄養のある食事を、3食ちゃんと食べさせてあげなきゃ、洗濯をして部屋を整えておかなくちゃ、と思っていました。何か言われても『後でね』『今、無理』と答えていたように思います」
子どもたちは、「家より学校の方が楽しい」といって学校を休まなかった。それはのんさんにとっても有難かった。それぞれが運動部に入って、学生生活を謳歌するようになった。
「だから、洗濯物が、ものすごく多かったんですよ。仕事を終えて、食事の支度をして、洗濯機を回して、干して…その間に疲れて床で寝たりしていました。夜中に起きて、風呂に入ったり、家事を終わらせたりして、忙しい日は、トータルで2,3時間寝られればよい方だったんじゃないかな…」
気付けなかった子どもたちの心の内
のんさんが、長女の異変に気付いたのは、長女が中学2年の時だった。腕に線状の傷がいくつもあることに気づいた。
「長女は、小さなころから器械体操をしていました。身体が柔らかいことから選手コースに選ばれて頑張っていましたが、体重制限が厳しい種目でもあり、太りやすい体質の長女は苦労していました。小学5年生の時に父親が他界すると、自分自身のコントロールが上手くできなくなってしまい、過食嘔吐を繰り返したそうです。摂食障害ですね。中学に入って、器械体操からは一旦離れて、高校の部活に入りましたが、摂食障害は続いていたと話してくれました。私は、お恥ずかしい話、全く気づいていませんでした。リストカットの跡を見て、どうしたの?と初めて娘と向き合って、揺れ動く娘の心の内を知りました。彼女が医療につながることを嫌がらなかったので、2人でメンタルクリニックへ行きました」
長女は、その後も、受験や、転校など、強いストレスがかかる場面になると、摂食障害が出たり、精神的に不安定になったりした。
「メンタルの問題は家族間で解決するのは難しいなと感じました。本人も隠すし、こちらも広い心で見守るのが難しいです。大学3年生の時に、大学の器械体操部に入って体操するようになってから、精神的には落ち着いたと思います。社会人になった今も続けていますので、本当に体操が好きなのだと思います」
あしながとの出会い
子どもたちにメンタルの不調や、不機嫌、かんしゃくなどがあると、「これは、父親を亡くした影響があるのだろうか?」と、のんさんは心配になったという。
「何もかもそのせいにするのはおかしな話ですけれども、少し過敏にはなっていたように思います」
親子や兄弟でぶつかり合う場面も、もちろんあった。
「私は仕事と家事で頑張っているのに、子どもたちは思春期だったり、反抗期だったりして、思うように勉強もしないし、かといって家事を手伝うでもないし(笑)裏を返せばごく普通に育ってくれたともいえるのですが…。特に上の子2人はゆっくり育つタイプだったようで、いろいろと心配しました」
のんさんは、子どもたちに真剣に自分の将来を考えてもらいたいと思った。高校へ進学するのは当たり前のことではなくて、本人の希望があってのこと。働き手がひとりの家庭の場合、「当たり前」を保つのも並大抵の努力ではないことを分かって欲しかった。本人たちの自覚を促す意味も込めて、奨学金の利用を切り出した。
「あしなが育英会には、つどい(サマーキャンプ)などのプログラムもあって、そういうものに参加できるのもいいなと思いました。いろいろな仲間や大人と関わることが大事だなって」
あしなが奨学生となって、高校生のつどいに参加した長女は、帰ってきてからつどいでの体験を語ってくれた。のんさんには、長女の顔つきが少し変わっているように思えた。
「やはり、長女は一番自分を抑えていたと思います。感情を出せずにいたというか。つどいに参加して仲間と出会って、自分のことをバーっと話せたと言っていました。過換気になるほど泣きじゃくったそうです。そういう場をもっと早く持ってあげればよかった、と話を聞いていて思いました」
大学に入ってからは、長女と長男はあしなが育英会の学生寮あしなが心塾に入塾した。また、あしながのプログラムを利用してアフリカのウガンダへ2週間の研修旅行にも参加した。初めて海外に出て、日本とは全く異なる環境で生活をして、2人の意識は大きく変わったという。
「アフリカに行って、長女は医療の道に進みたいと考えるようになりました。長男はどんな人でも平等に教育が受けられる世の中にしたいと語ってくれました。父親が教師になりたいと思っていたことも、影響しているのかもしれません。教職課程を取りました」
子どもたちは、心塾や様々なプログラムを通して、自分とは違うタイプの人とも付き合うようになった。仲間たちから多くを吸収していると、のんさんは感じた。人付き合いもそれなりに上手になった。
「長男は、真ん中の子の宿命なのか、放っておかれることが多かったのですが(笑)小学校低学年の頃から人をまとめる力がありました。リーダーシップっていうんでしょうか。でも、人前で話をする段になると、『モゴモゴモゴ』と、小声で何を言っているか分からないスピーチしかできませんでした。あしながの塾生になって、心塾の中で役割を与えられたり、つどいで議長団を務めたり、街頭募金で大声を出す経験をしたお陰だと思うのですが、今では人前で堂々とスピーチも出来るようになったと聞きました」
末っ子の次女は、のんさんの目から見ると1番大人びてみえる。母親の苦労をよく理解してくれる、優しい女性に育っている。
「仕事で疲れていると、私の頭をヨシヨシとなでてくれます。何か相談した時は、冷静に物事を見ているのも分かります。子どもたちは3人3様ですネ」
夫が亡くなった直後は、一番下が大学を出て就職するまで何年あるんだろう?と途方に暮れた。ひとりでやっていけるんだろうか、お金は足りるだろうか、と心配も尽きなかった。「よくやったな、とは思いますが、後悔することも大きかったりします。子どもたちが自立してきて、今後の人生を考えなくちゃなって思うようになりました」
今、夫と対面したら?
「今までの話を色々と聞いてもらいたいかな。でも、どこかでずっと見ているのかなって思います。子どもが本当に好きだったので、十分に育ててあげられなかったかもしれないけれど、『頑張ってくれて有難う』って言ってくれるかな」
あの頃の自分に声をかけるとしたら?
「そうですねぇ…何とかなるから大丈夫だよ、と伝えたいです」
(インタビュー 田上菜奈)
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