阪神・淡路大震災28年 虹の心塾で講座 1/17追悼の集い参列
あしなが育英会の大学奨学生寮「虹の心塾」(神戸市東灘区)は、阪神・淡路大震災から28年を前にした1月15日、震災の遺族や被災者支援を続けてきた俳優の堀内正美さんを招き、塾生と職員対象の「心塾講座」を開いた。
堀内さんは、震災だけでなく事件や事故などさまざまな理由で家族を失った人々のネットワークを広げてきた歩みを振り返り、現在取り組んでいる難病の子どもとその家族の支援活動についても紹介。塾生はメモを取りながら熱心に聞き入った。
震災発生から丸28年となった17日には、塾生が芦屋市の津知公園で追悼の集いに参列。地震発生時刻の午前5時46分、地域住民とともに黙祷を捧げた。
震災遺族、被災者支援を続ける堀内さん講師に
虹の心塾では毎年1月、阪神・淡路大震災に関連するテーマの講座を開いている。講師の堀内さんは神戸市在住で、遺族のネットワークづくりや語り継ぎ活動などを行う認定NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」の創設者。現在は、小児がんや難病の子どもとその家族が滞在する施設などを運営する公益財団法人「チャイルド・ケモ・サポート基金」(同市中央区)の代表理事も務めている。
堀内さんは東京で生まれ育ち、父は映画監督だった。10歳のころ、九州の炭鉱地帯で厳しい生活を送る子どもを撮影した土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」を見て、自分の生活との差に愕然とする。学生時代は、成田空港建設の反対運動に加わった。しかし、命がけで活動する地域住民の姿に触れ、“革命家気どり”だった自分の甘さを痛感し、挫折。運動から離れ、生きることに絶望していた時期、スカウトを受けて逃げるように俳優の道に入ったという。
俳優としての生活は順風満帆だった。一方で、「筑豊のこどもたち」に写っていた少年や少女の姿、学生時代の運動で出会った人々のことを考えては自問自答を繰り返していた。俳優となって10年後、自らの生き方を考えようと、家族とともに神戸に移住。そして、移り住んで11年後、阪神・淡路大震災が起きた。
「寄り添いのプラットフォームを」
壊滅的な被害を受けた街の姿に絶望したが、だれの指示でもなく住民が協力し合う姿に「人種や宗教の壁が壊れた。差別のない世界は実現するのではないか」と感じた。すぐに、被災者を支援するボランティア団体「がんばろう!!神戸」を結成。その後、活動は「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」へと広がった。神戸市中心部の震災モニュメント「希望の灯り」の建立を実現させて碑文を考案したり、阪神・淡路と東日本大震災の被災者をつないだり、若者による震災語り継ぎを後押ししたりするなど、幅広い活動を進めてきた。
「喪失を経験し、時が止まった人々に、わたしたちができるのは、ただ寄り添って一緒に涙を流すこと」と堀内さん。「苦しい時、つらい時、だれもが自由に訪れることができる場、寄り添えるプラットフォームが街のいたるところにあればいいと思う」と語った。小児がんや難病の子どもとその家族の滞在施設「チャイルド・ケモ・ハウス」の運営にかかわっているのも、その思いからだ。
堀内さんは最後に、「感性を覚醒させる」ことの大切さを説き、座右の銘である「生き尽くす」という言葉を伝えた。「この世に存在する幸せを感じ、しっかりと生き尽くしてほしい」。そう呼び掛ける姿は、72歳とは思えないエネルギーにあふれ、塾生たちに多くの刺激を与えた。
塾生の大学3年、健太郎さんは「寄り添いのプラットフォームが必要、というお話がとても印象に残った。私たちの塾がある神戸レインボーハウスもその一つだと思う。自分も人に寄り添える人間になりたい」と感想を述べた。
「震災を伝えていきたい」 追悼の集いに参列した塾生
講座から2日後の1月17日早朝、塾生は塾近くの津知公園(芦屋市津知町)で、地域住民による追悼の集いに参列した。慰霊碑に献花した後、地震が発生した午前5時46分に合わせて黙とう。その後、震災で2人の子どもを亡くした米津勝之さんと交流の時間を持った。米津さんは昨年1月の心塾講座講師で、毎年、この追悼の集いに参列している。
米津さんは「芦屋市津知町は被災地の中で最も被害が激しかった地域の一つ。震災直後、公園にはテントがたち、家を失った人々が何カ月も生活した。慰霊碑の存在の向こう側に、どんなできごとがあったのか想像してほしい。そして自分とつなげて考えてほしい」と語りかけた。
昨年も追悼の場を訪れ、近く卒塾を迎える大学4年の唯花さんは「当時のことを知らない私たちが追悼式に参加したり、被災した方々のお話を聞いたりできたことは貴重な経験。震災のことを考える機会に恵まれた4年間だった。小学校教諭になる予定なので、今後も震災について考え、子どもたちに伝えていきたい」と語った。