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保護者インタビューまなざし「人生山あり谷あり、でも前のめりで挑戦あるのみ」

保護者インタビューまなざし#34 伸也さん・美穂さん(宮城県 50代)

伸也さんと美穂さんは、ともに重度難聴の夫婦だ。聴力のある娘2人を、周囲の助力を得ながら育ててきた。多くの葛藤を乗り越え挑戦し続けてきたおふたりに、子育て、そしてこれまでの人生についてお話を伺った。
※あしなが育英会の奨学金制度は、病気・災害・自死(自殺)で親を亡くした子どもたちのほか、親が障がいを持っている家庭の子どもたちも支援しています。

子育てはチームで

(伸也さん)「私たちには、2人の娘がいます。2人とも聴力があり、ごく普通に言葉を使ったコミュニケーションをしています。私たちは重度難聴なので、全く聞こえないという訳ではないのですが、声質や場所によっては聞き取れないこともあり、唇の動きを読みながら、言葉を補完するために手話を使います。娘たちは、小さなころから、言葉を覚えるのと同じように、自然に手話を習得していきました」

おふたりは、幼少期からの訓練により、話し相手の口の動きを読む「口話」と、言葉で返事をする「発話」ができる。しかし、発音が難しい単語もある。子どもたちを育てる時には、常に「言葉」を意識してきた。

(美穂さん)「子育ての先輩方から教えてもらったのは、難聴者が言葉でのコミュニケーションを教えるのには限界があるので、なるべく小さなころから会話が飛び交う中で育てた方がいいよ、ということでした。そうした方が、子どもも早く言葉を覚えるというのです。だから長女は2歳から、次女は3歳から保育園に入れました。私たちには『さ行』の発音が難しいので、家で言葉を教えてあげても、正しく発音できないことがあります。そういう時は、保育園の先生が『ぞうさんが、じょうさんになってますよ』と教えてくれました。小学校へ上がる前の子どもたちが知っておくべき基本的な事や、物ごとの善悪など、教えることがたくさんありますね。私たちも家庭で教えましたが、保育所の先生方も一緒に子育てしてくださったと思っています」

テレビで大切な情報が流れた時や電話がかかってきた時は、子どもたちが手話で内容を伝えてくれる。それは、小さなころから自然に行われてきた。
(美穂さん)「私の母は電話を使う仕事をしていたので、電話での受け答えや作法を娘たちに教えてくれました。子どもの頃は、毎日電話で話す練習をしてくれたんですよ」

交通事故で聴覚障害に(伸也さん)

伸也さんは、1歳半くらいのときに交通事故に遭い、聴力を失った。相手は飲酒運転で、正面衝突の大事故だった。当時チャイルドシートは無く、シートベルトも着用義務はなかった。伸也さんは事故の瞬間、フロントガラスを突き破って車外に飛ばされ、その衝撃で聴覚に障害が残った。

(伸也さん)「両親は、私に日本語を教えるために、『れいぞうこ』『こっぷ』などと、あらゆるものに名前を書いた紙を貼ってくれました。どうしたら私が言葉を学べるか、試行錯誤を重ねたと聞いています」

中学と高校は、普通科の学校に通い、手話は使わなかった。いつも、教室の最前列中央に席を取り、授業中は教員の口の動きを読んで勉強していた。先生方は意識して、伸也さんの方に顔を向けてゆっくり話すよう努めてくれた。高校卒業後、国立身体障害者リハビリテーションセンターに進学し、上京。寮で暮らした。

「障害者リハビリテーションセンターで、初めて手話を学びました。一緒に暮らしていたおよそ100人の寮生が、ろうの方だったので、コミュニケーションの手段として必要だったのです。最初はたどたどしい指文字(指の形で50音を示す)での会話でした。毎日、寮の仲間が1対1で手話を教えてくれ、徐々に言葉が増えていきました」

手話には、日本語対応手話(難聴者向き)と、日本手話(ろう者向き)がある。ろう者の手話は、日本語の語順とは違う表現をする。
「今日、ここで、何々があったんだよね、と日本語で伝えるところ、日本手話では、何々があったんだよね、今日、ここで、という語順で伝えます。だからといって、英語の手話と同じか、というと英語は英語で手話があって、世界の共通言語としての『国際手話』もあります。私、英語はからきしだめなんですけれど(笑)」

ストローで喉の筋トレ(美穂さん)

(美穂さん)「私は、2歳の頃、感音性難聴になりました。幼いころからあまりよく聞こえないので、発話ができませんでした。両親は、息を吐きながら声を出すことを、何とか私に理解させようと、懸命に努力してくれました。水が入ったコップにストローをさして、息を吹くとあぶくがでますよね。あれを何度も見せてくれ、私にもやらせるところから始めて、声を出す、発話をするという訓練をしてくれました」
ストローで息を吹くことによって、発話に必要な筋肉が鍛えられる。息が出ていることも目で確認できる。息を吐きながら、言葉を発する…ということを、聞こえにくい幼児に理解させるのは、非常に難しいことだ。

「それに加えて両親は、音の聞き分けの訓練もしてくれました。いろいろなものを叩いて、音が聞こえたら手をあげる、というようなことです。母は訓練の一貫として、エレクトーンを取り入れてくれました。様々な音が出るエレクトーンで聞き分けの練習もしましたが、同時に『言葉にはリズムがある』『イントネーションがある』ということを、何とか私に分からせようと工夫してくれたのです。話し言葉には、高い音、低い音がありますよね。そして、緩急というか、早く話したり、ゆっくり話したりして、音楽のようなリズムもあります。例えば、『佐藤さん』という呼びかけも、音階にすると『ソ・ミー・ソ』になるわけです。『さ、と、う、さ、ん』と均等に発音せず、『さ とぅ さん』とリズムもある。私の親は、そういうことをエレクトーンを使って説明してくれました。バリエーションに富んだエレクトーンの音色の中から、シンセサイザーなど私の耳が聞き取りやすい音をみつけて、根気よく教えてくれたのです」

そして、伸也さんの両親と同じように、あらゆるものにひらがなで書いた名前を貼ってくれた。伸也さんも美穂さんも、幼いころから苦労して、言葉と発話を身につけたのだった。

夢はエレクトーン奏者(美穂さん)

「5才からは、エレクトーンを習って自分で弾きはじめました。当時の私は補聴器を使えば、演奏できる聴力がありました。子どもの頃から、何をやっても集中力が続かなかったのですが、エレクトーンだけは別でした。何時間でも集中して弾くことができました。学校でイヤなことがあっても、何かつらい思いをしても、エレクトーンの前に座って演奏していると、全てが洗い流されるようにスッキリしました。10代になったころには、将来はエレクトーンの講師になろうと決めていました。そのために、必須だったピアノも習い始めました」

高校2年生のクリスマスの時期、美穂さんは地元のショッピングセンターのオープンステージで、エレクトーンの演奏をすることになった。買い物客とはいえ、観客がいる1時間の演奏会だ。美穂さんにとっては一世一代の大舞台だった。練習に練習を重ねて本番に備えた。

「ところが、前の日になって、突然、耳が全く聞こえなくなってしまったのです。突発性難聴でした。今では良い治療法ができて、早期に治療を行えば、少しずつでも聴力が戻る可能性がある病気という認識ですが、発病当時は、突発性難聴になると完全に聴力を失うケースが多く、私は絶望のどん底に突き落とされました。演奏会の直前だったので、私の代わりにエレクトーンを演奏する人が調達できず、何の音も聞こえないまま、私はショッピングセンターの舞台に立つことになったのです」
美穂さんは演奏を始めたが、音が出ているのか、ちゃんと弾けているのかわからない。静寂の中で演奏を続けた。観客の声も、反応も、何もわからない状態だった。

「一生懸命、涙をこらえて演奏しましたが、緊張感と、不安と、恥ずかしさとが入り乱れた気持ちでした。大きな吹き抜け広場の真ん中にあるステージ。2階、3階のバルコニーにもたくさんのお客さんがいて、こちらを見ていました。エレクトーンは鍵盤が2段になっていて、足で操作するペダルもいろいろあるのです。今、弾いているその音が全く分からずに弾くのは困難でした。本当は変なリズムで演奏をしているのではないだろうか、変な音になっているのではないか、お客さんは内心、笑っているのではないだろうか…という不安が出てくる度に、最後までやる!涙は我慢!と思って弾きました」

プログラム通りの演奏を終えた美穂さんは、舞台のそでに走り込むと、母親に抱きついて号泣した。「悔しい!悔しい!」といって泣き続けた。その後の治療で、片方の耳の聴力はわずかに回復したものの、エレクトーン講師になる夢は、あきらめざるをえなかった。
「音楽の道に進もうと決めていたので、本当に悲しかったです。それでも前に進まなくてはいけません。私は障害者の訓練校に行って、印刷技術を学ぶことにしました」
卒業後は建設会社に就職し、10年間働いた。

故郷での再会

伸也さんと美穂さんの両親は、ともに「難聴児を持つ親の会」に参加していて、ふたりも小学生の頃から知り合いだった。互いに別々の専門学校で勉強をして、20代の後半に地元で再会した。

(伸也さん)「卒業後、横浜の印刷会社で3年ほど働きました。社長夫妻がすごく良くしてくださり、ずっとそこで働き続けたかったのですが、地元意識の強い父親から『宮城に戻って来い!』と強くいわれて地元に戻りました。宮城で聴覚障害者青年の会という団体に入って、妻と再会したのです」
伸也さんと美穂さんは意気投合して結婚。2人の娘を授かった。

(美穂さん)「子どもたちは、本当にすごく優しい子に育ってくれました。人の気持ちがくみとれる子たちです。学校でも、褒められることが多くてありがたかったです。保護者会や授業参観は、手話通訳の方の協力を借りて参加していました。ある時、先生から『手話を教えて欲しい』と言われました。校長先生も、その手話教室に来てくれて、大勢の子どもたちと手話をしました。娘は、私たちの障害を隠すことなく『私のママとパパよ』と、堂々とアピールしてくれたので、そのようなことができたと思っています」

(伸也さん)「私自身が厳格に育てられて、やりたいことをさせてもらえなかった…という思いもあって、娘たちはのびのびと育てるよう意識しました。ですから、長女が『あしなが育英会の奨学金を得て東京の大学へ進学したい』と言ったときも『行け、行った方がいい』と背中を押しました」
長女に続いて、高校3年生の次女も東京への進学を考えていると知った。夫妻は、娘たちが自立心を持っていること、自分の進む道を決めていることを嬉しく、頼もしく思う。そして、親として背中を押してあげることができることにも、悦びと誇りを感じている。

 

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故郷で再会したふたり

「娘たちの頑張りに力をもらった

(伸也さん)「次女が、小学生でバレーボールをやっていた時、強化合宿があり、親も練習のサポートや食事の準備に参加しました。練習を見に行くと、娘をはじめ、まだ背が小さい部員たちが集められて、繰り返しサーブの練習をしていました。彼女たちが泣きながら繰り返し、繰り返し、サーブが入るまで挑んでいる姿に心を打たれました。

そのころ、私もかつての妻のように、突発性難聴を患い、聴力を失っていました。もう、聞こえにくい生活には慣れてもいたし、このままでもいいやと思う反面、仕事の現場では、全く聞こえないことによる不自由もありました。そのため、手術で人工内耳を取り付けるかどうか、迷っていたのです」
人工内耳は費用もかかり、聴力が取り戻せるかは実際に手術をするまでわからないケースもある。耳と頭に装置を取り付けるので、外見も変わってくる。伸也さんは簡単に決断できなかった。

「バレーチームのスローガンは『やればできる』でした。泣きながら、何度も何度も練習しているわが子の姿に、ものすごく勇気づけられて、そうだ、自分も挑戦しなくては!『やればできる』じゃないか、と思いました」
娘たちの頑張りに背中を押された伸也さんは、その後、人工内耳を取り付ける手術に臨み、リハビリを重ねて、聴力の一部を取り戻した。あの時、娘たちから力をもらわなかったら、挑戦しなかったら、聴力回復は実現しなかったかもしれないと振り返る。

自分の特性を社会に生かす

(伸也さん)「口話といっても、会話の内容の全てが分かるわけではありません。自分の想像力も使って言葉を埋めていくのですが、80パーセントくらいしか理解できないと言われています。話す時に下を向かれてしまうと口の動きが分からないですし、マスク越しだと完全に分かりません。コロナ禍は本当に苦労しました」
伸也さんは現在、幾度かの転職の後、大手コンビニエンスストアの会社に勤めている。そこで、「コミュニケーションボード」の開発に参画した。欲しいものや必要なことを、指さして店員に伝えることができる便利グッズだ。

「東日本だけでも3名ほど、聴覚に障害のある社員がいます。その仲間と『指さしボード』を発案して社内コンテストに出しました。コンテストでは採用されなかったのですが、後に本社の上層部の目にとまり、社長の鶴の一声で全国展開されました。全国店舗のレジで、『コーヒー』『たばこ』『割りばし』など、必要としているサービスを指さして伝えることができ、数字やサイズも指し示すことができます。聴覚の障害に限らず、外国の方、言葉が出ない方などにも便利なユニバーサルデザインです」
現在では、他のコンビニエンスストアなどでも指差しボードが導入されており、伸也さんの会社では携帯電話のアプリも開発された。その発端には、伸也さんたちのアイデアがあった。

(美穂さん)「私は、また、手話サークルで手話を教えたいです。娘の小学校で手話教室を開いた後も、子どもたちや地元のサークルで手話を教える経験をしましたが、本当に楽しかったです。手話の良さを、多くの方に伝えたい」
2025年には東京デフリンピック(聴覚障害者のオリンピック)が開催される。海外から多くの選手や観客が日本にやってくることから、国際手話への関心も高まっている。日本の手話でも国際手話でも、興味をもってもらえたら嬉しい、と美穂さんは語る。

(美穂さん)「私のテーマは、いつも『挑戦』!希望をもったらなんでも乗り越えられると思っています」
(伸也さん)「私のテーマは『前のめり』かな(笑)ポジティブっていう英語よりも、前のめりという日本語のほうが私らしいから」

 

まなざし35写真2

身体障害者青年の主張大会で受賞、家族でよろこびを分かち合った


(インタビュー 田上菜奈)

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や、保護者向け講演会の運営などに携わる。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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