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「今を生きていればいい。きっと明るい未来はある」阪神・淡路大震災から30年 積み重ねてきた歩み 

 智行さん(37歳、兵庫県) 

2025年1月17日、阪神・淡路大震災から30年を迎える。智行さんは、7歳の時に震災関連死で父親を亡くした。その後、人との出会いを積み重ねながら、現在は、日々、好きな仕事にまい進している。30年を振り返り、今、何を想うのか。お話をうかがった。 

※2025年1月30日に、一部内容を修正しました。

これからも伝えていきたい想い 

「阪神・淡路大震災が起こってから30年経ったのかと、ただ、ただ、驚いています。震災によって父親を喪ったということについては、自分の中におとしこめていると思うので、最近は感情的な揺らぎを感じることは少なくなりました。こんなにも月日が経ったことが信じられません。震災当時は7歳でしたから、現在は5倍以上の年齢になったんだと、不思議な感じがします」 
 
智行さんは、震災について伝える機会を大切にしてきた。母校で、また友人が勤めている中学校で、1月17日の追悼のために話をしたこともある。 

「阪神の震災以降、東北、中越、能登と様々な地域で災害は続いてきました。新たな災害が起こると、過去に起きた災害への、人々の関心は薄れていきます。阪神・淡路大震災のことは忘れられていくのだろうか、社会の関心は変化していくのだろうか、そんなことを考えます。そこに対して、自分は何ができるのだろうか、という思いはずっと持っていて。なかなか動けていない部分もありますが、年に1回でいいから、特に震災を知らない世代の人へ、震災のことを伝えていきたいと思っています」

神戸レインボーハウスで積み重ねてきた出会い

神戸レインボーハウスでは、たくさんの人と出会う機会があった。2002年には、当時阪神タイガースの監督を務めていた故星野仙一氏の提案で、阪神タイガースがヘルメットに「あしなが育英会」のステッカーを貼って、遺児たちを応援してくれた。星野監督は、4月の甲子園球場での巨人戦にもレインボーハウスの子どもたちを招待してくださり、当時中学3年の智行さんは始球式の大役を担った。 

「亡くなった父親も含めて、僕の家族はみんな阪神タイガースの大ファンなので、星野監督や阪神タイガースから応援してもらえたことは、とてもとても勇気づけられる出来事でした。始球式で甲子園に立たせてもらったことは、本当に贅沢な経験でした」 


智行さん始球式始球式で投げたボールは自宅のリビングに飾っている

 

また、あしなが育英会の活動に参加する中で、自分と同世代の子どもばかりではなく、下の世代や、震災以外で親を亡くした子どもたち、海外遺児、ファシリテーターなど、様々な人たちと出会ってきた。 
「レインボーハウスは、僕にとって、行き場のない思いを受け止めてもらえる場所でした。当時の『受け入れたくない』という拒絶感を、暴れることや人を傷つける言葉で表現していた気がします」 
同じ経験をしている人たちやスタッフと出会い、話をしたり、話を聞いたりする経験を重ねることで、智行さんの心は少しずつ変化していった。 
 
「いっぱい遊んで、話をする中で、ずっと目を背けていたものを自分のものとして受け入れる、そんなタイミングが自然に訪れたように思います。父親が亡くなったことによって、あしながや仲間との出会いなど、得られたものもある、と今は思っています。レインボーハウスで出会った仲間は、利害関係のない、お互い、ただつながりを持つだけの存在です。家族に近いかな。自分が一緒にいたいから、話したいから、そういう感じで一緒に過ごしてきました」

東日本大震災遺児やその保護者との交流

2011年3月11日に東日本大震災が発生し、その後、東北にもレインボーハウスがつくられた。智行さんは東北での心のケアプログラムに参加して、子どもたちや保護者たちと交流を重ねた。岩手県陸前高田市を訪れたときは、やんちゃな男の子と遊んだ。彼の姿が昔の自分と重なった。 

東北での関わりの中で、遺児の保護者から話を聞いたことは、大きな転機となっている。 
「母親はこんなことを思っていたんだ、と思いました。親の苦労や気持ちをとても考えました。心配かけたんだろうなって。親は子どもとは違う見方をしていて、親の目線を知れたのは、新しい感覚でした。保護者の方たちのお話を聞いて、子どもは何もしなくても、その時を生きていればいいんだと思いました。親子で喧嘩をしていたとしても、一緒にいるだけで意味があるんだと、今はそう思います。きっと明るい未来があると思います」 

それまで、「父親が今、生きていたら…」と考えることがあったが、保護者の話を聞いて以来は、自然と考えなくなっていった。父親のことを思い出すことも減っていった。

亡き父との対話

しかし毎年、「1.17」と命日には、父親に想いを馳せる。 
「僕は3人兄弟の末っ子で、父親が40代半ばの歳をとったときの子どもだったんで、もし生きていたら、80歳過ぎです。どんな爺ちゃんになっていたんだろう、と思うことがあります。父親が『智行は、期待の星やな』って言っていたと、母親から聞いたことがあります。マイペースなところは父親譲りなのかな。『パパそっくりやわ』って、母親から言われます。普段は寡黙だけど、お酒を飲むと冗舌になる人だったみたいです」
父親は大手電機会社の役員だった。仕事や学歴の面を父親と比べると、今の自分に引け目を感じるところはある。 
「でも、父親には『五体満足で、好きな仕事につけていることに感謝してる。元気にやってるよ!』と伝えたいです。父親からは『ようやってるけど、もっと頑張れるんちゃうか』とエールを送られる気がしています」 

智行さんには、ひとつ、心に決めていることがある。 
「うちの家系の男性は、長生きしていなくて。だから、漠然とですが、自分もそこまで長生きする感じじゃないのかな、と思っています。でも、51歳、父が亡くなった年齢は超えるって。生き抜くぞって」

子どもたちに、「ひとりじゃないよ」と伝えたい

親を亡くした子どもたちに伝えたいことは、と尋ねると、しばらく考えたあと、次のように話してくださった。 
「当時の僕にとっては、レインボーハウスは『第2の家』でした。あしなが育英会の支援が、震災関連死の家庭を対象外としていたら、レインボーハウスとの出会いもありませんでした。子ども心につらい中、仲間やファシリテーターと出会えたことで、僕は救われたと思っています。この出会いがなかったら、全く違う人生を歩んでいたんだろうなと思います」

 

自分の経験をふりかえると、子どもが自身の気持ちを受け止めるには、周りの大人のサポートが大切だったと感じている。 
「子どもたちには、『自分は一人じゃないんだよ。周りに頼っていいんだよ』と伝えたいです。自分が頑張っていることも、駄目な部分もあることも、素直に認めて欲しいし、時には立ち止まったりガス抜きしたりすることも大切だよ、って伝えたいです。明日は明日の風が吹く…と僕は思っています。それに、人とのご縁があって、今がある。自分は人との出会いに運があるな、と思います」 

 

智之さんレインボーハウス

2004年6月「陶芸のつどい」で仲間たちと陶芸体験。写真左端


現在、コーヒーショップで店長をしている。大学時代に飲んだ、老舗喫茶店のコーヒーに衝撃を受けた。大学卒業後、一度はホテル業界で働いたが、コーヒーへの熱が冷めず、10年前、この世界に飛び込んだ。
勤め先は、神社の近くにある。1月は繁忙期だ。気持ちを込めて、コーヒーをお客様にお出しする。いつか、この地域の方々にも震災のことを伝えられたら、と思っている。 
「正月はいつも忙しいです。忙しさが少し落ち着いたころが1月17日。仲間と共に、その日を迎えたいと思います」 

 

(インタビュー 峰島里奈)

 

◇◇◇

レインボーハウスの活動に参加したい方へ

以下の5か所にある、あしなが育英会の心のケアの拠点「レインボーハウス」では、親を亡くした子どもたちが、遊びやおしゃべりを通して「自分の気持ちに丁寧にふれる」ことを大事にしています。子どもたちと保護者のグリーフに寄り添うため、安全・安心を感じてもらえる環境を大切に、季節や節目に合わせたプログラムを提供しています。

プログラムに参加してみたい方やレインボーハウスの活動についてお知りになりたい方は、以下のフォームよりお気軽にご連絡ください。

 

 


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投稿者

峰島 里奈

阪神・淡路大震災の被災や父親との死別経験から、親と死別を経験した子どもたちのサポートに関わりたいと思い、2010年に入局。学生寮「虹の心塾」での勤務を経て、神戸レインボーハウスにてグリーフサポートプログラムに携わっている。

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