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妻由美、ついに永眠|玉井義臣より VOL. 4

コラム 2021.07.30

 

この会長コラムのコーナーでは過去の機関紙で掲載された玉井会長のコラム(『れんたい』、『共生』)の中から一遍を選んでご紹介いたします。

 

 2021年7月9日は本会会長、玉井義臣の奥様、故・玉井由美さんの33回忌でした。今回は、後に玉井会長が、自身の運動が「敵討ち」から「愛の連鎖」へと変わる契機となった、と語っている由美さんのご逝去時の様子を克明に綴った、1989年7月に発行されたコラム「れんたい」を掲載いたします。

 

妻由美、ついに永眠

第168号(1989・7・15発行)

深夜、電話のベルが鳴った。

妻の病変を伝える、看護婦Kさんの声。二時四十五分。僕は退院して一週間、由美の看病のため病院の近くに安宿をとり、朝昼晩と病床につめた。3時5分、着。

由美が変だ。呼吸が荒い。顔から血の気がひいている。白蝋のような顔のところどころが紫色に。手も冷たい。血圧が計れないほど弱い。「いけない」と直感する。

 

深夜急変、そして…

さりげなく「由美、どうした、苦しいのか」「ちょっと」。「智人君(弟)を呼ぼうか」「大丈夫」と気丈な返事。

ほどなく主治医のN先生が見え、緊急の採血、検査。腹部内出血の疑いは消える。由美はさらに苦しそうになる。

4時頃、両親と弟が到着。「由美、大丈夫だよ」「姉ちゃん」の声に、目を開け、はっきり肉親を認識したようだ。返事はもうできない。医師 「厳しい」。「苦しまずにすむ注射をしてやって下さい」由美は、呼んでも目を開けなくなる。最期が近づいている。動転している僕のそばに、「オレがしっかりしなければ」と押えた僕がいる。ついに由美の下あごの動きが止まる。涙がふき出る。鳴咽がつき上げる。

由美は安らかな眠りの顔に戻っている。きれいな顔だ。妻由美、永眠。平成元年7月9日、午前6時20分。死因、脊髄腫瘍、呼吸不全。29歳没。

 

散歩の夢空しく

由美は、先月、僕の手術後3週間のベッド安静を待っていたかのように、2回目の感染症を起こした。僕は先月号で「おかげさまで峠は越えたと思う」と書いた。事実、感染症は何とか越えられそうだったが、諸検査の結果はもっと重大な病変を示していた。

由美の病気は脊髄の頚部の真中に腫瘍ができ、脳と胸部へ伸びていた。一昨年5月の大手術以来、はれあがった腫瘍は神経を押し潰し、由美の首から下は全く動かなくなっていた。その12月、今度は呼吸中枢を冒し、人工呼吸器が由美の生を維持した。

息を引きとる2日前、由美は七夕さまに「呼吸器がとれますように」「2人で散歩できますよう」と願をかけた。「時間がかかっても必ず呼吸器はとれるし、歩けるようになるよ。そのうち、西本君(OB・医師の西本育夫君)がいい薬をつくってくれるよ」と僕が言うと由美は神様のように信じてくれた。2年の間、天井しか見られない辛い闘病をひねくれもせず、八つ当りもせず、逆に周わりに気遣いしながら明るく耐えた。

 

「愛してるよ」 「ありがとう」

検査の結果、マヒした横隔膜は肺を押し上げ呼吸機能を半分にしていた。毎日、息苦しさが襲い由美は前夜も、「助けて、あなた息苦しい」と訴えた。何もしてやれない自分が歯がゆかった。腫瘍の腫れを押えるステロイドの長期投薬は、糖尿病と肝機能障害をもたらし、血管をもろくしていた。この夏は越せないと思った。僕は崩れそうな自分を知ったし最後の看取りを覚悟した。

「1年もてば」と言われながら由美は強い意思で、倍も3倍も生きた。最後まで尊厳を失わず、美事に生き、美事に死んでいった。

僕らだけの最後の時、僕は由美に「愛しているよ」と囁き、心で合掌した。由美は「ありがとう」とはっきり応え、瞬間、柔らかな表情をみせた。

由美よ、天国で、思う存分息を吸って、思う存分歩いておくれ。「さようなら」は言わない。由美、安らかに。

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