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保護者インタビュー 「私の一部になった妻~津波で妻を亡くして」

保護者インタビューまなざし#16

岩淵正善さん(宮城県 40代)

 

2011年3月11日に、東北地方を襲った東日本大震災は、11年経った今でも鮮明に人々の記憶に残っている。およそ1万8500人もの方々が、亡くなり、また行方不明になられた。岩淵正善さんもまた、未曾有の震災に翻弄されたおひとりだ。津波で最愛の妻を亡くし、「今でも、震災の話題に触れるのはつらい。テレビが見られない」と話された。震災の被害に遭った奨学生や保護者の理解につながればと、インタビューにお応えくださった。

(今回のインタビュー記事には、地震・津波の描写、震災時の感情を想起させる表現がありますことをお断り申し上げます)

天地がひっくり返った日

その日、岩淵さんは、仕事で仙台にいた。14時46分に、立っていられないほどの長く、大きな地震にみまわれた。建物から出てみると、付近はガラスが散乱していた。

「まずは、家に帰らなくてはと思いました。同僚の車に乗せてもらって、職場がある塩釜をめざしました。そこに自分の車を停めてあったので」

雪がチラつくなか、山側の道から塩釜を目指した。地震で崩れたがれきが、道をふさぎ、普段は1時間ほどの道のりに、5時間を要した。

 

自分の車のドアを開けると、運転席には水が溜まっていた。タイヤもパンクしている。しかし、エンジンは生きていた。

「何とか車を出して、自宅を目指したものの、全ての道が、がれきの影響で通行止めになっていました。何の情報もなく、頼みの綱の携帯電話も充電が無くなっていて。実家や親せきの家を訪ねて無事を確認してから、気を取り直して、もう一度自宅を目指しました。暗闇の中、地元の人しか知らない田んぼのあぜ道を右往左往しながら、必死で車を走らせました。何とか自宅近くまで戻れたのは、真夜中を回った時刻でした」

 

長男の小学校が避難所に指定されていた。校舎の中へ入ると、廊下も階段も泥だらけだった。暗く、物が散乱する中、行き当たる人に家族の消息を訪ねてまわった。運よく長男の担任と出合い、長男が音楽室にいることを知らされた。急いで駆けつけると、放心状態の長男がそこに居た。全身ずぶぬれの体操着のまま、ガタガタと震えていた。体育館で被災したという。半時間ほど傍にいたが、彼はほとんど言葉を発しなかった。ほんのひと言だけ、「おなかすいた」と小さくつぶやいた。

 

後で知ることになるのだが、地震当時、長男は避難所に指定されていた体育館にいた。子どもからお年寄りまで多くの人が避難していた。そこに津波が押し寄せ、体育館の中は巨大な洗濯機のようになったという。真っ黒な水が渦を巻いて押し寄せてきて、水位はどんどん上がっていった。長男は運よく流れてきた運動マットにしがみつくことができたが、目の前で、何人もの人が黒い水に飲み込まれるのを見た。人が人にしがみつき、助けを求めながら沈んでいく様子、悲鳴、轟音、それらを長男は目撃していた。

「長男が助かったのは、奇跡的でした。運がよかったとしか言いようがないです」

しかし、その悲惨な光景を、長男は生涯忘れることはないだろうと思うと、岩淵さんの胸は激しく痛む。東日本大震災は、被災した者から多くを奪うと同時に、恐怖の記憶を深く心に残した。

妻との再会

長女の幼稚園バスが、寺の方に行くのを見たという情報を得た。急いで、小学校の裏山にある寺へ行ってみると、園児たちがヒヨコのように固まって眠っていた。

「それを見たとき、よかった、生きていたって思いました。その場には幼稚園の先生方がいらしたので、娘を起こさずに、息子がいる小学校へ戻りました。安心とともに疲れが出て、疲労困憊という感じで…。妻は朝になってから探そうと思いました。」

 

翌朝は、けたたましいヘリコプターの音で目が覚めた。朝日に照らされた地元の町は、想像を絶する惨状だった。

「避難所の小学校の校庭と校舎には家の残骸やがれきが詰まっていました。その時、初めて何が起こったのか分かりました。とんでもないことが起きたと悟りました。妻は大人だから大丈夫と思っていましたが、これはちょっと…と、不安がよぎりました」

 

岩淵さんは、妻を探して回った。すれ違う人に、妻の情報を聞いてまわった。スーツに革靴だったため、足元は泥で滑って歩きにくかった。「小学生の体育館に、保護者が何人かいたから、そこじゃないか」という情報を得て、小学校へ戻った。静まり返った体育館の中に入り、徐々に暗がりに目が慣れてくると、そこも安全な場所ではなかったことが分かった。泥の中に横たわる人々の姿が目に入った。誰も息をしていなかった。大災害が起こったのだという実感がさらに迫ってきた。

 

ほどなくして、小学校近くの消防ポンプ小屋の壁に、妻の愛車が立てかけられた形で止まっているのを発見した。運転席の窓から、妻の腕が出ていた。

「見つけた!生きてる!」

そう思って、岩淵さんは車に駆け登った。

しかし、妻はシートベルトをした状態のまま、息絶えていた。顔は綺麗だったが、光を放たなくなった目が漆黒に見えた。車の後ろの窓には柱が突き刺ささり、運転席の窓も割れていた。

「それまで、一度も出したことがないような、自分の声とは思えないような叫び声が出ました。妻は、津波にまかれて溺死でした」

ひとりの力では妻を車から降ろすことはできなかった。岩淵さんは、ジャケットを脱いで、妻の上に掛けてから、その場を立ち去った。

 

余震も頻繁にあったので、ひとまず子どもたちを連れて、仙台の実家に身を寄せた。そして、改めて妻を迎えに行った。震災後2,3日目のことだ。しかし、その間に、妻の車は撤去されていて、再会を果たすためには、1週間もの間、遺体安置所を探し巡らなくてはならなかった。岩淵さんは、毎日多くの遺体と対面し、夜は悪夢にうなされた。最も苦しい1週間だった。妻と再会を果たせたときは、心から安堵した。周りには、行方不明になった家族を探す人が大勢いて、胸が痛かった。

 

ようやく、遺体を仙台に連れ帰ることはできたが、この事実を子どもたちに伝えることも、容易ではなかった。

義理人情に厚い妻

妻は、楽しい人だった。歌が上手で、ブルース・リーやジョン・レノンが大好きだった。カラオケやお酒は夫婦共通の趣味だった。いわゆる「男前女子」で、「中身イケメンのさっぱりとした性格」だった。

「任侠ものの映画が好きな、義理人情に厚い人でした。自分が他県から嫁いできて、最初は寂しかったということもあって、寂しい思いをしている人を放っておかない人でした」

 

2人目の子どもが生まれたころ、

「私、幸せだわ。やりたいことができている。正善さんと結婚して幸せだったわ。毎日、平穏無事で」

と、妻が言ってくれたのを覚えている。平穏無事。震災までは、本当に、何事もなく順調だった。子どもも2人授かった。いろいろなことが思い通りになっていく、と岩淵さん自身も思っていた。

「2011年は、上の子が中学生になり、下の子が小学校へ上がる年でした。震災の2週間くらい前に、学生服とランドセルを新調して、妻も、入学式を楽しみにしていました。本当に、それはそれは楽しみにしていたんです」

 

妻の遺体を仙台に連れ帰ってから、数日の間、家族で一緒に過ごした。その後、葬祭会館に安置したが、荼毘に付すまでにひと月以上かかった。

「物流が途絶えていて、棺に入れてあげたいと思う品々も手にはいりませんでした。子どもたちと『お母さんの好きだったものを絵に描こう』と、お供え物を絵で描きました」

栗、かぼちゃ、生ビール、から揚げ、枝豆、チョコレート、ケーキ。妻の好物が描かれた絵を棺に入れて、一緒に火葬した。

 

岩淵さんは手紙を棺に入れた。

「『今までありがとう、あなたの代わりに、私が命がけで子どもを育てます』という宣誓文のような手紙を書きました。だから、今日まで、一生懸命に育てることが出来たんだ、と思います。妻と約束しましたから。『安心してください、立派に育てます』と誓いましたから」

そして、岩淵さんは、今日までの11年間、その約束を守り通した。

岩淵氏写真

若いころの岩淵さんと妻

妻はもはや自分の一部

「子どもたちはダメージを受けていたので、心配でしょうがなかったです。自分の心は常に子どもから離れませんでした。命のはかなさも知ってしまったので、この瞬間しかないという刹那的な思いにかられてしまうのです。仕事よりも子どものことが、自分の生活の中心になりました」

震災半年後くらいに、あしなが育英会の東北事務所を訪ねた。2014年にレインボーハウスができてからは、ケアプログラムに通うようになった。レインボーハウスのスタッフは、「いつでもお話にいらしてください」と、声をかけてくれた。困難に行き当たった時に、相談ができる人と場所があることは、とても心強く、ありがたかった。

 

「子育てで迷った時、相談もしますが、まずは『妻だったらどう接してきたかな』と、思い出しながらやってきました。だから、妻は、僕の一部になっているんです。妻と、同化しているというか…妻は、もはや別人格ではないという気がしています」

子どもと妻を愛している、ということが、岩淵さんの心の支えになってきた。

10年の節目を超えて

震災の1週間くらい前、妻は手のひらをみながら「私、生命線こんなに長い」といった。岩淵さんは「俺より長いな!」と返した。今でも思い出される日常のひとこまだ。

震災を経て、岩淵さんの生死観は変わった。

「人はすぐ死んでしまう。自分も明日死ぬかもしれない。そう考えるようになりました。1番大事なのは、今生きているこの瞬間だ、という極端な考え方です。震災を体験していない人とは、少しズレがあるかもしれません。明日、死ぬかもしれないから、後悔しない人間関係でいたい、とも考えるようになりました。人を傷つけたり、苦しませたりすることは、考えられなくなったんです」

 

震災から11年が経って、悲しみは薄くなってきたけれど、今でも涙を流すことがある。

「ローカル番組が、2011年以降、毎日、震災がらみのことを放送しています。頑張っている人を紹介するとか…。でも、それを見るのは正直つらいです。子どもたちもそう。私たちはテレビを見なくなりました」

特に、震災の日が近くなると、震災関連のテレビ特番や新聞記事が、否応なしに目に留まる。それは、仕方ないことと分かっている。東日本大震災を忘れて欲しいわけでもない。しかし、目にすると、今でも悲しみが大きくなって、目を背けずにはいられない。やるせなさにさいなまれる。

「この10年、やはり、平たんに生活できたわけではありません。紆余曲折ありました。本当に多くの方に助けていただきました。家を切り盛りする必要があったので、仕事は思うようにできませんでしたが、それでも職場の理解を得て続けて来られたことに感謝しています。これからは、もっと仕事にも力を入れていけるようになると思います」

 

長男は、昨年、観光名所にある、大きなホテルに就職した。美しい海辺のホテルだ。

「10年の節目を過ぎて、心境の変化がありました。息子が就職、自立したということもあるのかもしれませんが、ずっと、見たくも、近づきたくもなかった海に、行ってみようという気になりました。若いころにやっていた、サーフィンをまたやりたくなったんです」

最初は、海に入るのがとても怖かった。海に入ったら、落ち込むのではないかと、心配だった。

「でも、入ってみたら、そんなことは全然なかったです。『震災のことを思い出さないんだ』と、自分自身を発見したような気がしました。あぁ、俺、海が好きだったなぁ、やっぱり海はいいなぁと思えたのは、自分でも意外でした」

 

若いころには、お金がなくて入れなかったサーフィンのスクールに入って、サーフィンを基礎から教えてもらった。ボードを買い、ウエットスーツを作った。サーフショップのオーナーと友達になった。閉じていた扉が開いて、世界が少し広がったように感じた。

「海はいいんです。ぷかぷかと浮かんでいるだけでいい。海や波は人生によく似ているっていいますよね。同じように見えても、ひとつとして同じ波はない。サーフィンは、一生懸命にパドリングして、必死に板に乗るところとか、来る波をコントロールできないところとか、難しいから面白いんです。ままならないところが、人生そのものだなって思います。何回もボードから投げ出されて、ようやく立てて滑ったときの達成感や、大自然を相手にしている感覚が好きです」

 

体力があるうちに、命があるうちに、やりたいことをやっていきたい。うまく出来ても、出来なくても、身体を動かして生きていることを実感したい。出会いがあるなら、新しいパートナーを得ることも考えてもいいのかもしれない…。最近は、そう思えるようになってきた。

「後悔しないように死にたいなって思います。だから、後悔しないように生きたいです」

 

(インタビュー 田上菜奈)

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