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会長コラム ―過重労働・睡魔と闘う24時間待機―

コラム 2021.09.07

この会長コラムのコーナーでは過去の機関紙で掲載された玉井会長のコラム(『れんたい』、『共生』)の中から一遍を選んでご紹介いたします。

 

奨学生のなかには看護師さんを目指している方も少なくないと思います。45年前、会長と岡嶋名誉顧問が出会ったころ、会長が交通評論家として活躍していていた1967年11月の月刊誌「潮」89号に寄稿した、救急外科の看護師さんたちのルポルタージュを一部抜粋して掲載します。なお、現在では不適当な表現もありますが、時代性を考慮し、原文のまま掲載させていただきます。

緊急病院“従軍看護婦”―過重労働・睡魔と闘う24時間待機―

第89号(1967・11月発行)

玉井 義臣  

 

 私が入ったとき、放射線室は緊張感がみなぎっていた。患者は死人のように見えた。酸素吸入をしている口のあたりが、呼吸のたびにわずかにぴくぴく動くのだけが、青年の生の証だった。

三日前の真夜中、池袋の路上で暴走タクシーに撥ね飛ばされ、最初の病院から脳外科医のいるこの病院にたった今、転送されてきた。彼の命は脳内の血腫を除去する開頭手術に賭けられていた。

 開頭手術を行うには、血腫の有無と場所の的確かつ迅速に診断することが必須条件であり、ただちに頸動脈から造影剤を打ち込み、レントゲン撮影する必要があった。医師は頸動脈に太い針を刺した。通常なら針の穴から血が噴き出し、一メートルくらい飛び散るというのに、彼の血はわずかににじみでる程度。血圧二〇。脈拍一八〇。呼吸は自分ではできなくなっている。

 看護婦たちは医師の指示通りに敏捷に動く。ドイツ語らしい術語が次々飛び出す。看護婦たちも時々同じようにドイツ語の単語を口にしながら婦長の指揮のもとリスのように動き回る。深夜一時、彼女たちはこの日の午後から手術を二つ受け持っているから、もう一二時間ほど働き続けているのにその動きに疲れは見えない。

造影剤の打ち込みが始まった。数秒の間に機械で薬を流し込み、自動的に五枚連続の脳血管撮影が行われた。現像が終わるまで、医師と看護婦は患者の状態を観察し続けていた。現像が出来上がってきた。医師たちは別室でそれを検討した。

やがて父親が呼ばれた。医師は血腫がないから手術の対象にならないこと、生命の中枢である脳幹がやられているので呼吸ができなくなっていることを父親に告げた。父親は冷静に受け止め、ポツリと漏らした。

 

「もっと早く、こちらへ連れてくればよかったですね」

 

 いままで働き続けていた看護婦たちは病棟の夜勤の看護婦に申し送って寮に帰って行った。時計は午前三時を過ぎていた。

青年は早暁、父母に看取られて息を引き取った。

 

 これは東京のある病院で実際に起こったことである。日本全国で毎日これに似た光景が数十、数百と繰り返されていることを統計は示している。あるいは死に、あるいは後遺症に苦しみ、あるいは幸運にもキズが癒え社会に復帰する。その過程でほとんど例外なく看護婦の世話になる。熾烈な交通戦争の “従軍看護婦”すなわち救急看護婦の生活を見ていこう。

看護婦の生活は厳しい。とくに救急外科となると看護婦も嫌うくらい辛い。三回に一回は深夜勤務があるし、救急外科になるといつ何時どれだけの患者が飛び込んでくるか分からない。給料は決して高くないにもかかわらず、常に労働過重になりがちだ。これらの悪条件のなかで、彼女たちは我々の医療生活を支えているのである。

 救急は原則的に二四時間待機が必須条件である。現状では、質的に十分な二四時間待機ではないが、それでも看護婦は必ず誰かは当直する。病院によって違うが、大学病院や大病院ではたとえば午前八時から午後四時までの日勤、午後四時から一〇時までの準夜、午後一〇時から翌朝八時までの夜勤という三交代制がとられているのに対し、街の開業医などになると午前九時から午後五時までと、午後五時から翌朝九時までといった二部交代制になってくる。

 彼女たちは一応、定時で勤務から解放されるが、入院患者の容体の急変や、救急車が到着すると、真っ先に起きなければならない。そこから先は患者しだいで朝まで看護に当たらなければならない。一〇時以降の勤務には超過手当がつくので、深夜に起こされれば、まず枕元の手帳に時間を記し、オーバータイムを計算するという。だが、欲も得もないほど眠い深夜に叩き起こされるときの辛さったらない、と彼女たちが言うのは無理もあるまい。

当直の晩に、入院患者も平穏、救急車もなく、完全に床に入ったままで朝までぐっすり眠れるのは一か月に一度あるかないかだということだ。まず、平均三、四時間は深夜なんらかの“騒ぎ”で起こされるという。ことに、冬の夜の辛さが身に沁みて、泣きたくなるという。床に入っても寒くてすぐに眠れない。強力な湯たんぽか電気アンカを使うから、蒲団のいたみが早く、当直室の蒲団の裏地は通常の半分しか寿命がない。

 もともと辛い救急看護婦の仕事をますます辛くさせているのは、深刻な看護婦不足である。これは全国的な傾向であるが、とくに救急病院に象徴的に現れている。東京・台東区のある病院の婦長は特命を受けて、旅費、日当以外にスカウト代まで預かって郷里の富山に中学卒の看護婦志望者を集めに帰ったが、一週間歩いて一人の女の子も得られなかったという。看護婦志望者は減る一方な上に、大学病院などの付属看護婦養成所にとられて、小病院はどこもかしこも定員不足。仕方なく“メイドさん”こと見習看護婦で員数を合わせている。

 とにかく、看護婦不足の問題は深刻だが、その原因は一言にしていえば、看護婦という仕事が労多くして報われるところが少ないからであろう。仕事の辛さは先に言った通りだが、看護婦になるにも正看で高校卒業後三年間、看護学校養成所へ通い、准看では看護高校に三年または准看護婦学校養成所へ二年行き、国家試験をパスしてやっと、晴れて看護婦、准看護婦になれるのである。

 ところが大学を出る以上に努力して正看になっても、官公立病院の看護婦は公務員であり、初任給は二一、九〇〇円、准看では一七、九〇〇円にしかならない。これは高校卒で一流と言われる企業に就職し、三年を経た者の給料よりやや低いというのだから、不満が出てもおかしくない。

 看護婦の社会的地位、評価が低いのも志望者が減る一因であろう。欧米では“ナース”が尊敬される職業であるのとは反対に、日本では戦前から“ナイチンゲール”だ“白衣の天使”だとおだてながらも看護婦蔑視の傾向があったことを否めず、それが戦後完全になくなったとは言えない。とある下町の病院に長年勤める婦長はこう語った。

 「四〇年間、看護婦を続けてきましたが、苦労の割には報われませんでしたね。何年やっても保障はなし、世間では看護婦をなんとなく蔑視するような習慣がまだありますから、イヤな思いもしましたよ。でも私は若いとき先輩に教わった“看護婦の愛の手はある時、医師のメスに優ることがある”という言葉は本当だと最近わかるような気がして満足しているんですよ。」

 この婦長の述懐には日本の看護婦の苦闘の歴史が込められている。お国のためだ、社会のためだといわれ、黙々と働き続けてきた看護婦はなにも救われていない。いわば滅私奉公的な気持ちがなければ、この仕事は務まらないのである。

 戦後、制度が変わり、世相も遷り変わったが、看護婦に課されている仕事の質と量は昔と変わらない。特に交通戦争の “野戦病院”に勤める救急外科の看護婦たちは、良いとは言えない労働条件で精一杯、働いている。しかも、彼女たちはその社会的責任を意識する時間もなく、懸命に被害者のために動き回っている。

 救急病院を象徴する赤いランプが今日も深夜の路地を照らしている。古びた建物にともる赤い光は、医療行政の貧困を表わしているようだ。

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