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95歳を迎え「生きてきてよかった」震災で息子夫婦を亡くし孫を育て29年

2024年1月1日に発生した能登半島地震でお亡くなりになられた方々、被災され今もご不安な想いをされている皆様に心よりお見舞い申し上げます。


2024年1月17日で、阪神・淡路大震災から29年を迎えます。

 

吉田好子さん(95)は、阪神・淡路大震災で息子夫婦を亡くしたあと、震災遺児となった孫を育てあげました。神戸レインボーハウス職員が、これまでの歩みと今のお気持ちを伺いました。

※本インタビューは2023年に実施されたものです。

66歳で始まった2度目の子育て

好子さんは、1995年の阪神・淡路大震災で、長男の勝俊さんと、その妻の純さん(ともに当時36歳)を亡くしました。息子一家は1994年の4月に、一軒家に引っ越したところでした。翌年の1月に大震災が発生しました。

 

二人の姉妹、綾香さん(当時小6)と春菜さん(当時小2)は、地震が起こった前日に組み立てたばかりの二段ベッドで寝ていて助かりました。しかし、勝俊さんと純さんは家屋の下敷きに。「人生、いつどこでどうなるかわからないですね」という好子さんのつぶやきには、言葉にならない想いがこもっているようでした。

 

その後、子どもたちはそれぞれ、祖父母である好子さん夫婦のところに姉の綾香さんが、母親の純さんの実家に妹の春菜さんが引き取られました。

 

孫の親代わりとなった当時、好子さんは66歳。世代の差だけでなく、孫たちが心に受けた深い傷もまた、子育てを難しくしました。綾香さんは震災後、暗い壁に向かってじっと座っていました。言葉も話さなくなっていました。

「いろいろ思うと、かわいそうでね。言葉一つひとつに気を遣いました」

 

仏壇の前でお供えをする度に泣いていた好子さんを見て、ある日、綾香さんが「おばあちゃん、そんなに泣かないで。わたしのほうがつらい。パパとママがどうじに死んだんだから」と言ってきました。その言葉を聞いた好子さんは、その日以来、泣くことをやめました。

別の日、妹の春菜さんから、「おばあちゃんのママは、おばあちゃんが何歳まで生きていたの?」と聞かれたことも。「40歳かな」と答えたら、「わたしは8歳までしかいなかったのに。おばあちゃんは40歳までお母さんがいるなんてずるい」と言われ、わんわん泣かれたこともありました。
「あの時の2人の言葉は忘れない。今もそのまま浮かんできます」

あしなが育英会の「つどい」で孫に起きた変化

子育てに転機が訪れたのは、綾香さんが高校生になった年の夏でした。あしなが育英会が開催していた「高校奨学生のつどい」の案内が届き、参加させることにしました。嫌がる本人の手を引き、集合場所だったJR明石駅まで連れていきました。自分で連れていったものの、その日の晩は「大丈夫かな」と心配で眠れませんでした。

 

「それが、帰ってきたら人間が変わったようになっていたんです。明るくなって、普通の子どもになっていたんです。本当に本当に、嬉しかった。あの時の気持ちは今も忘れない。本当に感謝しています」

 

小さかった綾香さんも結婚し、母親になりました。ある時、ひ孫から「おばあちゃんも泊まって」とせがまれ、綾香さんの家に泊まったことがありました。

 

その夜、「おばあちゃんの布団に入っていい?」と綾香さんがやってきました。一緒に布団に入っていると綾香さんは、「おばあちゃんがおってくれたから幸せやったわ。いつまでも元気でいてね。まだ全然お返しできていないから、これからお返しするから長生きしてね」とつぶやきました。嬉しくて、抱き合って眠りました。

東北と神戸交流のつどい

あしなが育英会は2018年から、「東北と神戸 交流のつどい」を開催しています。この交流会は、阪神・淡路大震災と東日本大震災で親を亡くした子どもたちとその保護者が集まり、それぞれの歩みや気持ちを分かち合う場です。

 

2023年11月25日、神戸レインボーハウスで第3回「東北と神戸 交流のつどい」が行われ、好子さんも参加しました。第1回が仙台レインボーハウスで開催されたときも参加し、同じように孫を育てるおばあちゃんたちに出会いました。初めて出会ったにもかかわらず、話が尽きませんでした。今回、当時出会ったおばあちゃんたちとの再会は叶いませんでしたが、東北のお母さんたちと話してみると、やはり何となく通じ合うものがありました。

 

「当時のことを思うと涙がでます。それは、いつまで経っても同じやな~と。私でも、やはりこれだけ経っても、その時のことを話していると涙が出るんです。東北は、あの時から、3月で13年を迎えようとされています。まだまだ大変やと思うけど、10年経ったときの自分のことを思うと、少しは、気持ちが変わられた部分もあるのかな」と、東日本大震災の遺族に想いを馳せました。

生きてきてよかった ― 大切な家族との「繋がり」は今も

現在の好子さんは、医者いらず薬いらずで、一人暮らし。お散歩をしたり、亡くなった息子の勝俊さんが4歳の時からのママ友と一緒に、大学の公開講座に参加したりと、活動的に過ごしています。「90歳を過ぎたおばあちゃんたちで、大学の公開講座に一緒に出掛けたんよ」と、温かい笑顔で楽しそうに話してくれました。

 

職員から、元気でいる秘訣を伺ったところ、「よく聞いてもらうんですけどね。マイペースに好きなことをしているんですよ。この年まで生かして頂いて、元気に過ごさせてもらって有難いです」と教えてくれました。

 

2023年9月には、神戸レインボーハウスで、95歳の誕生日を迎える好子さんの珍寿をお祝いする会が開かれました。阪神・淡路大震災のあと、神戸レインボーハウスで出会い、歩みを共にしてきた人たちが集まりました。

 

「今はもう本当に、何も心配なことはありません。小さなことを言えば、いろいろあるでしょうけど、それぞれが幸せにしてくれている。今まで生きてきてよかったな~、と今はつくづく思いますね。当時は、今日死のうかな、明日死のうかな、息子夫婦のところにいきたいと思っていました。孫のためにも自分が代わってやりたいって。でも、ふたりの孫たちが成人するまでは、何としてでも元気でいてやらなくちゃ、と思って。責任は果たせたのかな」

 

好子さん95歳の誕生日をみんなで祝った

前列右から二番目が好子さん。神戸レインボーハウスにて

 

好子さんには、毎晩、就寝前にすることがあります。子ども3人、孫7人、ひ孫11人の名前と生年月日を、一人ずつ言っていくのです。脳トレにと思って始めた習慣は、もう5年も続いています。

 

「今日のおばあちゃんの脳トレが終わりました。おばあちゃんの脳トレに付き合ってくれてありがとね~。今日も元気に過ごせました。また明日元気に会おうね。おやすみ~」

 

全員の名前を呟いたあと、気持ちを伝えます。そうすると、すっと眠りにつくことが出来るのです。好子さんは毎日、大切な家族との「繋がり」を感じながら、一日一日を重ねています。

 

聞き手 峰島里奈(神戸レインボーハウス)

 


あなたを支える場があります

大切な人との死別を経験すると、「グリーフ(愛惜・悲嘆)」と呼ばれる感情・反応が生じることがあります。

あしなが育英会では、次の5か所にあるレインボーハウスで、親を亡くした子どもたちと保護者の心のケア(グリーフサポート)活動を行っています。子どもたち一人ひとりのグリーフ(grief:喪失に伴う様々な反応)を支えるため、子どもたちの身体の安全はもちろん、心の安心を感じてもらう環境を大切にしています。

お話を聞いてみたい方、プログラムのご参加を希望される方は、お気軽にお問い合わせください。

 

 


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レインボーハウスでのボランティアを希望される方へ

レインボーハウスでのプログラムには、ファシリテーターと呼ばれるボランティアの方が不可欠です。
一緒に遊んだり、おはなしをしながら子どもたちの気持ちに寄り添います。
2日間の「ファシリテーター養成講座」受講後に、実際のプログラムにご参加いただけます。



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