「亡くなった父と一緒に生きている」―自死遺児から職員へ(後編)
そんな「父の死」という我が家の“タブー”は、私たち兄弟の大学進学を機に徐々に解け始めていく。
高校時代からあしながの奨学金を利用していた私は、大学でも同様にあしながの奨学金を利用することにした。進学のため田舎から上京した私にとっては、文字通りこの進学を機に自分自身を取り巻く環境がガラッと変わった。中でも一番の変化と言えば、自らと同じように親を亡くす経験をした遺児と“出会う”こと、“関わる”ことがこれまでより圧倒的に増えたことだ。
入学直後から学生募金や奨学生のつどい、レインボーハウスでのボランティアなどの場を通じて、同年代だけでなく自分より年上や年下の遺児たちと出会い、関わってきた。またその時々によってはお互いの死別体験について語り合うこともあった。そして当然その中には、自らと同じ自死遺児も含まれていた。
「実はうちの家もそうなんだよね」と、そう応答してくれる相手の存在を知った時、ふっと心が軽くなったのを今でも覚えている。
「分かってくれる相手がいた」「一人じゃなかった」そんな安心感が、当時の私に再び父と向き合うきっかけをくれた。そうした機会を積み重ねる内に、少しずつ自分自身の中で父のこと、そして父の死のことに触れる力が身についていったように思う。
他の人がかかわることで、本人だけでは果たせないことが可能になったり進めたりする。(『かかわり方のまなび方』西村佳哲著より)
話せる“相手”がいる、理解しようと受け止めてくれる“誰か”がいる。そんな寄り添い関わってくれる“他者”という存在のおかげで、私自身、亡くなった父ともう一度「繋がり直す」ことが出来た。
また同じくあしながの奨学金を利用して進学した妹や弟たちも、多くの仲間との出会いを通じて父との「繋がり直し」を経験していたように思う。
そして、そんな子どもたちの変化をきっかけにしてか、母もまた少しずつ父のことを口にすることが増えていった。
ミニバスの監督をしていたこと。
辛いものとお酒が好きだったこと。
意外とお調子者だったこと。
お人好しな性格で、子どもから大人まで多くの人に好かれていたこと。
そんな父のお葬式には本当にたくさんの人が参加してくれていたこと。
いつしか、父との想い出はもちろん、時には父へのグチまで、家族の会話の中に自然と父が現れるようになった。
亡くなった当時は、その衝撃の大きさ故に、身動きを取ることも言葉にすることすらも出来なかった。ただ、多くの人との出会いと関わり、そして長い時間をかけることで、徐々に触れる術、扱う術を手に入れることが出来た。
父を亡くした悲しみは今も変わることはないけれど、ただその悲しみと共に生きていく術を今の私たち家族は持っている。
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大切な人の死は大きな喪失で、心の中にぽっかりと空いた穴に戸惑うけれど、死者はいなくなったわけではない。あとから必ず「出会い直し」がやってくる。その「出会い直し」を契機として、死者とともに生きていくことが、大切なのではないか。(NHK100分de名著『オルテガ 大衆の反逆』中島岳志著より)
この数年、父の命日と誕生日、そして父の日には、母から家族のグループLINEに写真が届く。映っているのは仏壇に並んだ父の好物、辛口のカレーとちょっといい缶ビール。その写真が流れるのを合図にそれぞれが買ってきたお供え用のビールの写真をLINEに流す。今では兄妹全員が実家を離れて暮らしているため、昔ほど気軽に集まったり墓参りに行くことは出来ないが、それでも必ずその日は家族みんなで父へのお供え写真の送り合いをしている。そうこうしているうちに、誰からともなく父の思い出を話し始めるのがいつもの流れだ。
父が亡くなった当時には多分信じられなかった光景。そして今では当たり前になった光景。
確かに我が家は、家族みんなが亡くなった父と一緒に生きている。そしてこれからもきっと一緒だ。
中村優一(なかむら・ゆういち)
1991年4月24日生まれ、東京都八丈島出身。
13歳の時に父親を自死で亡くし、あしなが育英会の奨学金を利用して高校・大学へと進学。大学時代はあしなが心塾(学生寮)で生活。大学1年生の時からボランティアとしてレインボーハウスのプログラムに参加。
大学卒業後は教育系企業に就職、2016年にあしなが育英会に入局。現在は仙台レインボーハウスで主に東日本大震災で親をなくした子どもやその保護者の参加するプログラムの企画・運営を担当する傍ら、東北地域の大学奨学生の指導担当も兼任。